法話15

やさしい法話1.臨終について

「絶体絶命」という言葉があります。どうしてものがれることの出来ない困難な場合を形容する言葉です。
人間の一生の間には幾度かこうした場面にぶちあたることを覚悟しなければなりません。しかし何が最大な問題だといっても、まず臨終に直面することほど大きな問題はないでしょう。これこそ「絶体絶命」の中の「絶体絶命」にちがいありません。否「絶体絶命」とは臨終から出て来た言葉ではないかとさえ思うのです。
どれだけ愛し合う夫婦、親子、兄弟がいても、どんなに地位や名誉や財産があっても、臨終を前にして一体何が役に立つでしょうか? 全く「独り」です。「一人」ではありません。臨終の枕もとに愛する者、いとしい子、親しかった友人知人がたとえ幾人とりかこんで見守ってくれたとしても、「独り」で受けて立たねばならないきびしい世界、それが臨終なのです。
しかもそれはどうすることも出来ない、厚い厚い壁のように立ちふさがるいわゆる「絶体絶命」の境地なのではないでしょうか?
しかし、そのどうしようもない「独り」の私の上に、常日頃からたえまなく一条の光明がさしかけられているのです。それが「南無阿弥陀仏」なのです。その心は、「おまえ独りではないよ」という呼びかけなのです。それは永遠の生命とのふれ合いにほかなりません。
平生において、このことが領解された者には臨終を前に有限な自己の終末を自覚するのではなく、臨終を一つのくぎりとして無限のいのちを実現することが出来るのです。
「南無阿弥陀仏」に救われる者にとって、臨終は「絶体絶命」の壁でもなければ、永久に没してしまう深淵でもありません。ふすま一枚を引きあける程度のもの、といえば大げさかも知れませんが、たしかに臨終の持つ意味は変わるのです。「愛別離苦」のかなしみは当然まぬがれませんが、しかしその涙の中に「往生めでたし」とよろこべる世界があるのです。