法話4

「心に響くことばA」

久しぶりに帰省した高校時代の友人と会い、談笑する機会がありました。七十歳になった私たちは、自分や家族の病気、薬のことや同級生の消息についてずいぶん長い時間話し、楽しく過ごしましたoその中に次のような会話がありました。

友「最近、ちょっとしたことで腹が立つことが多くなって困っている」

私「どういうこと」乙胃のことば隼の中に最も度し難いものは他人ではないこの私

友「町のコンビニで買い物したときなど、前のお客さんが小銭を出すのをもたもたしていたり、病院で受け付けを済ませた後、あまり長い時間ではないのに、得たされると、イライラしてつい大きな声を出してしまうことが多くなって、自分ながらあきれている。そんなことはないか?」

私「あまりそのように感じたことはないねぇ」

そう言って、私はたまたま持っていた『註釈版聖典』を開き、彼と一緒に読みました。

「凡夫いふは無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだちそねみねたむこころおほひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと」一念書多念文意…註釈版聖典二ハ九三頁)

私「これは親鶏さまが、我々凡夫についてお示しくださった言葉で、凡夫とは常に自己中心で、真実に暗く、欲や怒りはいくつになってもなくならず、命終えるそのときまで消えないと。さらに親鸞さまは、そのような自分について『恥づべし痛むべし』ともおっしゃっている。だから少しのことで腹が立つ自分に気がつき、それをあきれていることは素晴らしいと思うよ」

友「初めて聞いた。少し仏教の勉強もしてみるか」

帰宅して、妻に「友人にほんの少しだけど仏教のことを教えてやった」とそのときの様子を事細かに少し自慢しながら話しました。

妻「あなた、本当にちょっとしたことで腹をたてないと思っているの。外でのことは知らないけれど、家の中では二、三日に一度くらい、私にあたりちらしているわよ」

ショックでした。そう言えば思いあたることがあります。母は相当耳が悪くほとんど聞こえませんし、妻も最近少しではありますが耳が悪くなってきて聞こえづらいことがあるようです。そのような二人に話しかけ自分の思いを伝えようとするとき、うまく伝わらないことがあると、おだやかにゆっくり大きな声で話せば良いものを、ついイライラして大きな声で怒っている自分がいました。自分のことにはなかなか気がつかないものです。

私「ごめんなさい」

世の中に最も度し難いものは、他人ではないこの私でした。