法話7

「やさしい法話@ いのちまいにち新しい」

お釈迦様は、人生は無常だとおさとりになりました。無常ということは永久性がないということです。つまり人生には、何一つとして私達が永久にあてに出来るものはないということです。今はたとえ確かそうに見えていても、やがては自分の手もとから消え去ってしまうものばかりだということです。
過ぎ去った日々の思い出とは、みんな消え去ってしまったものへの郷愁のようなものです。人間とはしょせん、過ぎ去った日々の思い出に生きるよりしかたのない年寄りになって、やがて淋しく果ててしまうより道はないものなのでしょうか。
おまけに年寄りになると人間は誰もみんな衰えるのです。
しかし、年寄りになったからこそ生まれる美しきもあるのではないでしょうか。それは外見的なものではなく、永い人生の体験を通して培われた、内面性の深さです。内面性とは、自分一人よがりな主観ではありません。
それならば、これもまた年寄りの頑固さにすぎません。
永い人生の豊かな体験から、いやがうえにも世の中はむなしいものと知らされ、その中に何が永遠に変らない「まこと」かを客観的にうすかしめるだけのものを深めた時、私達の生命は不滅のものとなるのです。
そこには決して過去の思い出にだけ生きるわびしい人生ではなく、たとえどんな年寄りになっても、明日への希望があるのです。

親鸞聖人のおすすめ下さる「南無阿弥陀仏」とはそういう私にしていただくことです。