法話9

「やさしい法話1

さわやかな五月の風に吹かれながら、行きかう人の姿を見れば、外見上は何事もなさそうです。しかし、人それぞれについて、深くその人生を問いただせば、みんな悩みや苦しみや悲しみをかかえて生きているのです。
愛情の問題、仕事のこと、経済的な問題、健康のこと等、人生には様々なことがあります。でもそれらは自分の努力で、または人に力を貸してもらって解決出来ることもあります。
しかし人間にとって一番の問題は、自覚していようがいまいが、生あるものは必ず死ななければならないということです。私達の日々の努力は幸せに生きるためにほかありません。しかし「生きる」ことの中に、常に「死」という矛盾概念がふくまれているのです。矛盾とは文字通り、攻めるための「ホコ」と、守るための「タテ」で、全く逆なものが裏表になっていることです。この点をどう受けて立つのか明解な答えを出しておかないと、何かの時、人間はふっと「むなしさ」を感じます。
近頃「しらける」という言葉をよく耳にします。今まで一生懸命にやっていて、急に何かの拍子で一瞬、おかしな雰囲気になったりした時につかうようです。
どんなに楽しくはしゃいでいても、ふと「生命」の深淵をのぞいたら、そこに「死」の影を見た。これではせっかくの人生もしらけて終わるでしょう。しかし考えて見ると、この「しらけた」感じの時こそ、人間は一番大切なものを見つめることが出来るのかも知れません。
親鸞聖人は、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と教えて下さいました。これは、限られた自己の中に、永久不変のものを求めるのではなくて、無限の「いのち」と「ひかり」の中に、このありのままの私がつつみとられているということであります。ですから「死」が一切の終わりではなく、「生」もまた絶対ではない、「生死」にこだわらない自由な境地に生きる身にさせていただけるのです。