[司会者]
西成署の汚職問題を契機とした、釜ヶ崎暴動を通じた抗議行動が、先ほどいいましたように、92年の林建設に対する顔付け抗議に対する労働者の怒りの爆発を通じて、92年からの反失連闘争に発展したわけです。
その一部分を(ビデオ)で見ていただきましたけれど、このような具体的な経過とそこでの内容については、講座のメインであります藤井さんのほうに、その闘いとそれ以前の日雇い労働組合の闘いをですね、話をしていただきたいと思います。
私たち釜ヶ崎講座は昨年(01年)の12月8日に釜ヶ崎反失連の共同代表であります本田さんを講師に招きまして、釜ヶ崎についての講演をはじめました。以降3回の講演と9月13日にはホームレスの自立等に対する特別阻止法の法案の成立を踏まえて、先ほど6月27日に三者で行われました連合大阪、部落解放大阪府連、NPO釜ヶ崎支援機構三者と、私たち釜ヶ先講座の四名が共になって実行委員会を作りまして、9月13日この会場でしたけれどシンポジュウムを開きまして、法案成立以後いまどうしたらいいのかを議論しました。
140名の参加者がこの会場一杯に入りまして、大いなる議論をしまして今後さらに闘いを発展させていかなければならないという風に話し合ったところです。
一方特別阻止法はできましたけれど、具体的な要求し闘いとって行かなければならないということは、はっきりしているということは、そのシンポジュウムの中でも明らかになってきたということです。現在釜ヶ崎反失連は9月28日から大阪城の府庁前で300〜350名、連日野営闘争を闘いながら府・市に対して具体的な要求を闘い、去る12月5日には東京に集まって中央の全国の仲間と共に闘いを続けているということを聞いています。この闘いについては後ほど反失連の方から報告を聞きたいと思います。
1903年に天王寺で万国博覧会が行われる中で、従来大阪市内にあった木賃宿が強制的に現在の釜ヶ崎に移住されまして、それまで数件在った木賃宿街が釜ヶ崎という形で形成されてから来年は100年になります。それを含めて改めて釜ヶ崎の今後ということを考えていくうえで、釜ヶ崎の歴史という側面から話を進めていきたいと思います。
それと同時に釜ヶ崎の歴史を具体的に紐解くと同時に、いままでの釜ヶ崎の闘いを、昨年一年間は法案成立のためにという事で講座内容を含めていきましたので、一旦そこから離れて、釜ヶ崎の闘いについて一つ一つ紐を解きながらやっていきたいと思います。講座というのは勉強する側面ももっていますので、そういう意味で釜ヶ崎講座の事務局の一員ではありますが、また現在闘病中であります藤井さんにご足労を願って、藤井さんが釜ヶ崎に来てからの闘いと、いまビデオを見ていた反失業の闘いになるまでの一連の経過について、藤井さん自身の口からお話いただきたいと思います。そうしましたら一寸立ってはしんどいという事なので座って、釜ヶ崎日雇い労働組合・反失連の藤井さんに自由に、フランクにお話をしていただきたいと思います。
[藤井]
俺が釜ヶ崎に来たのは1976年、それまでどこにいたのかと言うと、堺で全国金属に所属していた山合製作所というのは、南海高野線の西側に天王寺から堺東、鳳を通る、昔は13間道路といわれていた道路沿いにある。従業員が300人ぐらいで組合員が250名くらいの会社でした。
そこで組合活動をしていて、そして18歳くらいに民青と共産党に入ったわけですけれど、約3年くらい組合の役員をしました。そこで共産党との色々な問題で、安保の問題、議会制民主主義の問題で、話が合わないということで除名ではなくて、自然離党しました。本来わりと位置についていましたから、何らか、民青か共産党から何かいってくるだろうと思っていましたけれど、辞める少し前は専従をやってたのに、なにもそのあといいにこなかって自然離党になる。
釜に来たのが76年くらいです。釜日労と知り合ったのは多分77年、あるいは来てすぐの76年かもわからないが、もと釜共闘のメンバーで「すずきくにお」さんという、通称デカパンという仲間が大阪拘置所でコントミンを投与されて、医療ミスで死んだという、その抗議に行こうというビラを見て釜日労の仲間と知り合いました。でも、77〜8年すぐ組合の運動をやったわけではなくて、積極的に関わりだしたのは79年、あるいは80年からは積極的に関わりだし、会議や運動にほぼ全部参加しました。
1980年というのは釜ヶ崎史上初めて賃上げをあげろという運動をやった年です。釜の労働者はよく知っているが、当時一番単価が安かったのが神明工業で5000円でした。そこで我々は神明以外は大体5500円で、おい等は最低単価を6000円に上げろということで、3月ごろに全業者に要求書を出しました。業者に呼びかけて、一番最初に呼んだのは神明工業、次に渥美工務店、いう対象になる業者を呼びました。このとき大阪府が西成署に機動隊を要請して釜のセンター内で赤旗を振るな、団体交渉をやりたかったら飯場まで出向いていけということを言って、先ほどのビデオにあったように強制排除という形で、隔離だということで大体50人くらい隔離された。たまたま警察が顔を知らなかったのか、たまたまトイレに逃げ込んだら隔離されなかった。そのときに渥美工務店の息子を、いまの社長です。息子を捕まえてそのままトイレまで連れて行って、警察がある程度引いたときにもう一度、渥美工務店の息子を置いて団体交渉をやる。そのときは一応全業者6000円になりました。
1981年は要求書を出してウダウダ言うたりしたら、車をパーンとけったり、揺さぶったりしたりしたら、赤旗を持ってみなで走っていったら、相手にマジックを渡したら向こうは6500円と書くんやからね、書かんかったら車を揺さぶるんやからね、あれほど楽しいことはなかった。そして車に乗ってるもんに降りーと、あそこやったら6500円くれるんやからそっちへ行けと、みなはそれやったらそっちへ行くわと、言う形で、同じ仕事やったら500円ええ方へ行くわという形で、大体みなは動いてくれた。
81年も中山工務店とは一寸もめましたけれど、警察沙汰になったけれど、それ以降は楽しかったですね。
いままで全金にいたら7〜10人くらいで団体交渉をするでしょう。南海線側にいた人夫出しの手配師を、いつも釜日労が旗出して、机出しているところにつれてきて、牛乳瓶の箱の上に立たせて「どないするんや」と500人くらいに取り囲まれたらそら「上げます」というわな。「あかん」というたら物飛んでくるんやから、それから車揺さぶるしやなそら車揺さぶったら金上るんやったらみなやるわな。そら言うたら自分がいってるところやったらやられへんけれど、自分が行ってない飯場のところやったら揺さぶれるとなるわな。
そういう事業主を捕まえたら、みなも知ってるようにセンターの周辺やったら、すぐ車止められるわけだ、そういう形でやっていた。
80年に姫路に西播総業という、いま「あさひ産業」という名前に変えているかな。この飯場の闘争は釜ヶ崎史上一番うまく行った。従業員50〜60人くらい全員賃金清算してつれてきた。初め暴力を振るってないとか、何かいっていたが飯場のメシの炊いている人まで棒で殴っていたわな。きちっと一人一人つるし上げていったら、飯場の中に血のついた木刀でてきたり、いろんなモデルガンがでてきたりするわけです。この西播総業の嫁さんの親は藤田といって、河本(元衆議院議員)の後援会長やった。それから後やけれど姫路署の署長と問題があって新聞にのった位有名な奴で、まあ背景にそういうのがあった。
まあこういう飯場争議がうまくいって、一番楽しいときでした。
1983年から東京に行き、金町戦で大体7〜8年釜ヶ崎から東京に行かざるをえなくって、7年くらい釜ヶ崎を離れていましたが、それ以降はズーと釜ヶ崎を拠点として活動をやっています。
釜ヶ崎というところはどういうところかというと、東京の山谷、横浜の寿、名古屋の笹島、あとは福岡の博多の築港とか、あるいは東京の河原町とか、川崎のはらっぱとか、広島のどんどん、沖縄の首里とかあるわけですけれど、大きな都市に必ずある寄せ場という日雇い労働者のまち。寄せ場というのは業者・人夫出しにとって欲しい時に取りに来て、まあ今日はコン打ちがなければ取りに来なくてええはと、業者にとっては使い勝手な場所です。労働者は金も払わずに溜めて置ける、労働者を置いて置ける場所が、寄せ場だろうと思います。
寄せ場ではどんな職種が大体あるかといえば、建設と港湾、最近港湾とか海の仕事は減っています。昔は製造業とか、石油・化学工業の、それの末端の下請けで働いているのが日雇い労働者である。
それで安い単価でいつでも切り捨てられる、自由にできる役割をになわせてきたのが日雇い労働者であろう釜労働者であろう。
釜ヶ崎というのはいつごろできたのかというたら、1903年にいまの天王寺、天王寺公園の周辺で、内国勧業博覧会が開催されたわけです。そのときに多分いまの堺筋線だと思うんだけれど、堺筋線で天皇が天王寺公園で開催された博覧会にくるということで、拡張工事が梅田から行われました、その途中にあった木賃宿の長町というのが、現在の釜ヶ崎の前身であろうと、現在の日本橋の電気街辺りです。ここにあった木賃宿です。
そこは今以上に衛生面が悪かった。衛生面と治安対策で天皇がくるということで開催の2年前から強制的に移住させられるということで、長町の木賃宿に住んでいた人々が現在の釜ヶ崎の歴史を形成していった。
釜ヶ崎という地名は、いつまで歴史的にちゃんとあったかというと、昔は西成郡今宮町大字今宮字釜ヶ崎という地名が1901年まであった。大阪市の拡張というか、市がいろんなところと合併したさいに、大阪市内の中に組みいられます。だからきちんとした名前が編入前まではあったわけです。
現在は行政用語で愛隣地区という、でも愛隣地区といったってなにも差別的な名前で、誰も愛隣地区なんて呼ぶ奴はいないです。こういう名前を勝手にどうどうと釜ヶ崎といえばいいのに、東京だったら山谷ときちと付けてるわけです。どことももともとの地名をつけているのだが、釜ヶ崎だけが愛隣地区という行政用語で勝手に呼んでいる。釜ヶ崎の地区内で大体200件のドヤがあるといわれている。ドヤというのは「宿」の逆さま言葉です。
まあ簡易宿泊所です。こういう密集した場所で釜ヶ崎の中にも大体2万人一寸の労働者が住んでるん違うかと、釜ヶ崎全体、通いを含めて多いときは3万人ぐらいいてるんじゃないかといわれています。
まあ全国で一番大きい、山谷と寿を合わせても事実上釜ヶ崎のほうが大きいわけです。全国の全部の寄せ場を集めたと同じくらい、もしくはそれ以上釜ヶ崎の規模が大きいわけです。
これは要するに江戸時代からの流れで大きくなりつなぎで多い。釜ヶ崎が膨張して人々が増えていったという時期があるわけです。これが1960年ごろの、日本のエネルギー産業の転換でそのエネルギーに関する炭鉱であるとかつぶれていくわけですね。そこで働いている労働者が釜ヶ崎とか釜ヶ崎の周辺に来て、最終的に釜ヶ崎に流れついたということ。
それと、万博、博覧会の前後大阪府の労働部が北海道から九州まで、万博の建設に人が足らんと、だから何とか大阪の万博に人を送ってくれないかということで、釜ヶ崎の労働者の人口が膨大に増加する。
このとき荷に来た直接釜に来ず、他の建設会社で働いた後、釜に来た仲間もいるだろうけれど、このときに来た万博や、60年代のエネルギー産業の転換以降に来た労働者は、もう55歳以上いっているわけです。最低でも、この仲間が高齢者となっていまの青カン、野宿の背景になっているではないかと思われます。
だからいま年いって野宿してるもんが、万博のときに集めてたり、その後きちっと大阪府がちゃんとやってたらこういう状態になってない。大阪に来い来いというて、あとは知りませんでとほって置いたからこういう状態になってしまった。これは大阪府の労働部の行政のやりっぱなしが、いまの野宿・青カンの55歳以上の仲間に影響があるんだろう。
釜ヶ崎に運動が持ち込まれたのはいつごろかといったら、全日自労とか、多少わけのわからん労働組合が在ったといわれているけれど、実際に釜ヶ崎の日雇い労働組合を組織しようということで、労働運動というか、労働組合が持ち込まれたのは1969年の全港湾労働組合建設支部西成分会が最初だろうと思います。
その当時、60年代・70年代というのは釜ヶ崎の労働者は割りと港湾荷役に働きに行っていた。今と違ってセンターができる前はわりと仕事、港湾の仕事がありました。港湾荷役では仕事や倉庫をやっている人夫出し業者が釜の労働者を連れにき、いまでも割りとやってくるが、当時はものすごい数がきていました。全港湾も港でストライキをやってもやで、業者がスト破りとして釜の、わりと港湾荷役のできる労働者を連れて行って要するにスト破りをやるわけです。
全港湾が頑張ってやっても、釜から労働者を連れて行ってやで、その効果を無くすような形が在ったわけです。これではやっぱりあかんと、それで全港湾も釜の労働者を組織していく必要があったわけです。そうせんかったら運動にならんかったわけですね。ストライキをやっても釜から大量にいってやで、荷物はちゃんと船から運ばれるとなればこまるというわけで、全港湾も釜の中で労働者を組織していくことになる。
当時の港湾や建設労働者のほとんどはヤクザが仕切って、いまもそうだけれど、建設業者とか港湾の末端というのは大体ヤクザが仕切ってるわけです。暴力団がね。だから労災や賃金不払いが当たり前のようにあったわけです。だからそういうときに労働組合に相談にいったら、いくらでも解決できるということで全港湾建設支部西成分会にみな、協力していくということ、いっしょにやろうかという仲間が増えたわけですね。
ただ70〜71年ぐらいまではそれでよかったわけです。ところがその言う新しい労働組合もよかったんだけれども、労働相談の解決の仕方・考え方の違いというのかね、そういうので組合員や労働者の中から考えの違いが生まれてくるわけです。どういうことで違うかといったら、釜の労働者といったら、殴られたら相手に謝ってほしいという意識が合ったわけです。
ところが基準局とかの方でも金もろたらええやないかという形の、そう言う風な現われ出した。最初はそんなことはなかったです。一緒に押しかけてやで、「こら謝らんかい」とやった、そういうことをやって大量に逮捕者が出た。争議だからむこうはヤクザや警察はくるは、当時の釜の労働者も若いから荒くれよるはということで、大量の逮捕者が出たということもあって、基準局とかそういうところに相談したりという形で、組合が労働者と一緒になって押しかけていく最初の時分の運動の形態と違ってきたということで、「そんなもんやれるかい」という労働者とか西成分会の労働者、それには当時の日本の労働運動、総評含めてなんだけれど、限界を西成分会も乗り越えるということはできなかった。そういう点で西成分会の中の一部と労働者、それと学生運動を当時やっていた仲間も割りと釜にきてて、1972年の4月に暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議という組織を作ります。
この結成のきっかけになったのは平野区に在った鈴木組という談熊組系のヤクザで、今は談熊組はないけれど、その若頭が経営やっていた飯場があった、人夫出しを、極道飯場が、ここに元うちの組合員がいてて、みなも知ってて通称「隊長」といわれてた橋野勲さんと仲間の何人かが、平野区の飯場に仕事に行ったわけです。看板に「市内」とかいてあって、釜の労働者は「市内」といったら誰しもが、釜の中で看板に市内とかかっているから、大阪市内やと思ったんやね。そして飯場にいったらやで「おい・お前奈良に行け」といわれた。「話が違うやないけ」「奈良市内も市内や」といわれたから怒って帰ってきた。
帰ってきたけれども金がないから、夜の、夜勤の仕事を探してた、そしてこの隊長というのは大体掘り方が好きで、昔は大体水道の掘り方とか、夜の掘り方の仕事があったもんだから、仕事探してた。そしたら鈴木組の組員に見つかって、飯場に連れて行かれた。飯場というてもヤクザの事務所やけれど、連れて行かれてヤキ入れられるわけです。そして逃げ帰ってきたと、それの話を聞いた仲間が何とかせなあかんと、抗議のビラ巻きしようやということで、いまの花園公園に集まってみなで何人かで鈴木組、いまの「サンエイ」食堂の前辺りです、あそこらで手配やってるんです、そこら辺でビラ巻きしていた。ところが当時はいまと違ってほとんどの車に木刀をつんでいました。木刀もって殴りかかってこられるわけですね。
そらあ皆逃げるわな素手で行ってんだから、でもはじめはケチらかさられるんだけれども、それを見ていた仲間がビンなんかを放ったりしだして、それで逆転しだして鈴木組の社長をつかまえて土下座させた。車もひっくり返して火をつけて、確か2〜3日暴動状態になりました。それでも大量の逮捕者が出ました。これをきっかけとして何とかせなあかんなということで、釜ヶ崎共闘会議ができた。
釜共闘はいけいけドンドンんで頑張って、闘いの成果で、暴力手配師や暴力飯場も大分減ってきた。ものすごい警察の弾圧とか、色々含めてうまくいかなくなる。仕事はあるうちはまだよかったんです。ところが仕事がなくなってきた。73年くらいにオイルショックが始まって、仕事がなくなってきた。だから闘争というか運動のやり方を変えなきゃいけないのに昔のやり方でやる。不況の時には不況の運動をやらなあかんのにやれなかったから、方針を立てられへんから、74年くらいに解体してしまう。その当時、釜共闘のなかで越冬闘争のときに、行政相手に仕事保障要求の闘いとか臨時宿泊所の規模の拡大・期間延長とか、生活保護の問題とか、結核の仲間の入院問題とか色々やってた行政班のメンバーを中心として、釜日労を76年に作って、現在の釜日労がある。
釜ヶ崎というのはセンターができるまでは路上手配やったね。天王寺駅・天王寺公園、ジャンジャン町、それから霞町のチンチン電車のところ、それと新今宮の駅の周辺から26号線へ、それと銀座通りという形で幅広いところで手配。手配というのは今と違って、もろヤクザやったわね。
ヤクザの看板そのままつけてくるんやから、代紋の入った車でそのままモロくるんやからね。それはいまと違ってタコ部屋ね、古いものは知っているが「サカグチ組」とかみな来たわけです。そういう奈良の色んなタコ部屋業者が来てるし、ピンハネとか怪我と弁当はおのれ持ちいわれて、労災やというと怪我したお前が悪いんやという形でしてくれないのが、こういうヤクザ手配の影響であったわけです。とくに60年まではものすごい劣悪なタコ部屋というのは当たり前のようにあった。こういうことにみな不満持ってたわけです。こういう不満持ってたときにちょうど、1961年に、風呂屋に行こうとしていた一人の労働者がタクシーに轢かれた。轢かれてまだ生きてるか死んでるか分からんのに、西成署のポリ公がむしろかぶせよったんや、それを見たもんが「何やわしら犬や猫かい、人間のような扱いせんかい」ということで、そこでもめだすんやね、突いたりして連れて行かれるもんもあったりして、それで怒ってそれがひきがねとなって釜の第一次暴動が起こった。
それで暴動が怒ったためになんとかせんとあかん、しょっちゅう暴動起こるんと違うか、ということで、その労働対策は大阪府労働部、民生対策は大阪市の民生局、いま民生局は市民局に名前変えてんかね。治安対策は大阪府警の西成署ということで、府・市と西成署、三者で協議会が実施されるということがありました。
1962年に早速やね、大阪府労働部が分室として来て、大阪府の分室を母胎とする財団法人西成労働福祉センター、いまの3階にある高齢者の仕事紹介しているあそこです、あそこが1962年にできます。それから10年たった後に、まず市更相が、市立更正相談所が大阪市の出先機関として設立された。それで1970年に一応大阪市とか大阪府を含めて青空市場、要するにヤクザの人夫出し、そういう飯場を解消しようということで、愛隣綜合センター、いまのセンターですよね、新今宮の駅のところにあるセンターが建設されました。
このセンターが建設されたときに医療センターね、要するに社団法人医療センターと、労働福祉センターと、センターができると同時に愛隣労働職業安定所もそのなかに作られる。それまで釜ヶ崎というのは、阿倍野の分室のね、いま無くなった愛隣職安の南分庁舎、ここの失態事業を中心とした職安しかなかった。そこで愛隣綜合センターを造ったと同時としてセンターの職安、ところがこの職安というのはやね、70年に作られていまだかって現金求人の紹介を一回もやったことがない、みなも知ってるようにやってるのは労働福祉センターなんです。だから職安なのに唯一全国でいまだかって仕事紹介のしたことのないのがこの愛隣職安なのです。
特殊なねわけのわからんアブレ賃だけ払ってる職安なのです。一応センターを造った建前はこの暴力飯場というより、暴力手配師、ヤクザの手配師に紹介させない正常な就業しようと、無料の紹介、斡旋を労働福祉、福利厚生を労働福祉センターでしようという事で、まあ一応窓口紹介ということで、現金と飯場の紹介をやるわけですけれど、みなも知ってるようにほとんどが飯場紹介、現金も朝下のところでちょこっとやってるが、ところが9割5部以上が人夫出しや手配師がやってるわけ、いまでもこの仕事が少ないときにも9割以上が手配師や人夫出しがいまだにやってるわけです。
だから年のいったもんが排除されるわけです。不公平な、仕事ができようができまいが関係なく、「お前は年いってるからあかん」「白髪はえてるからあかん」という形で断られるわけです。これが要するに相対方式の名のもとにやで、やられるわけです、「顔付け」という形で。ところがいまの人夫出しというのはやで、職業安定法の44条で違反してるわけだよ、これがハッキリしてるのは人夫出しが勝手に人紹介してピンはねして金儲けしてるんだから、みなも知ってるようにヘタ打ったら車もスコップもないような業者あるで、ユンボも持ってない業者なんぼでもあるで、スコップもまともに持ってない人夫出しはあるがな、現場に人だけ送ると、鉄筋屋というたかてウラ工業やで切断機もない、鉄筋曲げる機械もないがな、みなにハッカーとあれもってこいというだけで、人を手配するだけで、そういうのは職安法に違反してるわけです。
ところがやで、1976年ごろにやで「建労法」というのができるわけです。建設労働者の雇用の改善に関する法律6条に、これにやで人夫出しが釜でいうたらセンターに登録したらやで、手配師は手配師で登録したらやで、手配師の募集者求人書をもろたら釜の中で、地区内で、どこでも紹介できる。ところが釜の地区内は何処までかというたら、26号線からチンチン(阪堺)電車までなんですよ、ジャンジャン町のところで釜ヶ崎の求人したらあかんのやで、フジロッカの前あかんのやで、ほんまはあの道までやチンチン(阪堺)電車越えたら、あれは要するに釜ヶ崎の地区内でなんぼ登録してようがヤミ手配、だから「ダイヨウシ」のパチンコ屋の第一のパチンコ屋の手配しているのは違法やで、だからといってセンターの職員があそこまでいって文句いうてるとこ見たことあるか、ないね。またでけへんね民間団体やから、「こらお前何しにきてんやね」といわれたら終わりやし「頭ハツッタろか」といわれたら、「すんまへん」というて帰ってくるしかないわけです。
そら釜の地区内でやで、いまの「加納組」といわれてる加納建設の「ダイケンコウーポレーション」に対しても文句よう言わんのや、「お前の子供どこの幼稚園いってるんや」といわれたらもうビビってしもうてやで、よういかんがな何の権限もないやれるといったらセンターの登録をやで打ち切る以外出来ない。
釜日労がそこに行って労働組合がそこに一発でも負けたら、センターがなんぼ電話しても金送ってけえへんで、こんなんハッキリしてるねん。センターの職員がいうてる「釜日労が解決で長引いてるんであれば、うちがなんぼ電話しても送ってくれませんわ、基準局が言っても送ってくれませんわ」といってる。こんなハッキリしてる。
だから相対方式で業者に手配師と話をして意見言うたってやで、業者が手配師に若いものつれて来いと業者に言われたら、若い奴つれていくやんか。仕事できるできん関係ない、そら行ってコン打ちやったら何しまんねんという奴でも、若かったら連れて行きよる。バイブレーター使えというたらやで左官屋が流したところにバイブレーター使って怒られた奴もおるわけだ、分かるわなザートみな流れてまんねん土間打ってたら左官屋が流したところでどうなるかも、それで2〜3時間パーや、そんなん関係なしにつれてくるわけだ。
仕事できるできん関係なくて、「お前髪の毛は白」だの「年いってる」というだけで仕事にいけないという構造は、大阪市や大阪府労働部が一番ええ方式といわれてる相対方式、これがやで釜ヶ崎では一番最大の問題や。
センター、職安で仕事紹介しないから人夫出しのやで手配師、人夫出しは全部ヤクザや。ヤクザの看板掲げてなかっても全部企業舎弟や、神明のあれも明らかに企業舎弟やで、あのセンターの、医療センターの横の「山根組」あの社長も中西組の組員やで、こういうのをやで取り締まればええねん、でけへんわけだよ。
職安ではないから、基準局じゃないからセンターというところは民間団体なんだから。こういうところに釜の労働者に色んなことを任しているわけです。相対方式で好き勝手に人夫だしを手配師にやで、「お前もう年いってるからいらん」「お前この前雨降ってるときにカッパ持って来いというたから、お前みたいな奴は要らんわ」とこいで終わり、現実に今そうやで雨降ったときに「カッパほしい」というたら、「お前この間現場で雨降ったときにカッパほしいというたな、そんなやつ内いらんねん」といわれたら終わりやねん。
仕事あるときは「おのれ何抜かしとんねん、お前とこだけが人夫出し違うぞ」といえるが、いまいわれへん。こういう構造を作ってるわけだ。いま組合がドンドンと叩いたらやで逃げよるねん、釜に来なくなる。なんでやいうたら地域で失業している労働者がいてるからそこで雇うわな、ほんまは職安で人夫出し業者を雇われへんのに、職安で手配してるんだよ人夫出しが、ほんまは人夫出しは職安で手配出けへんねんで、ところが建設業者の登録出してるから手配できるわけだ、要するに建労法の出来たおかげで好き勝手やてるわけで人夫出しも、手配師も、これが要するに相対方式が最大釜の中にあるわけです。
おいらはいつも業者にいうんだけれども、「現場で勝負させてくれて、仕事できんからお前はあかんは、と言われて断られるんやったら納得するね。そら若い奴でも体悪かったら動かんねん、年いってもバンバンできる奴もいるわけだよ、いつも言うんだけれど「掘り方は若いもんだけではできん」というね、「馬力だけで掘り方できん違うからね」、おいらは自慢じゃないけれど、相撲取りに掘り方勝ったことがあるからね。
方枠ちゃんと角入らへん、こんなん掘り方とはいわない掘ったというだけの話やねん、掘り方というのは大体方枠いれなあかんかったら、方枠入れるだけの幅をみたらなあかん、ホーム体とか鋼管入れる幅をみてやらなあかんわけだよ。これをやれるのは土方なんです。でもいまそうじゃないのが集まっているから、ユンボで掘るから関係ないわけです。だから、「お前年取ってるからいらん」という構造がある限り、野宿して一寸体があって何とか仕事に行こうと思っても、仕事できんからいつまでも「青カン」状態に追いやられるのが現状だと思います。こういう構造が出来ているなかで、1980年代のバブルのときは一日7〜8000円位現金で、実際センター手配の7〜8000円というのは、1万人位やろな、それは現金やから、飯場と違うから、3万人くらいしかいないのに、2万人以上は毎月仕事いってた。だからなんぼでも釜に募集にきたら人夫出し連中はバンバン金儲けできた。
だから大きな「渥美」にしたって、何処にしたって飯場は新築してきれいなワンルームに近いような飯場がわりと出来たわけです。仕事があるときは無茶苦茶使われてやで、そういう役割を担わされてきたのが、釜の労働者だろうと思うのです。
こういう仕事が急激にバブルの崩壊以降、いつ頃から仕事がなくなってきたかというたら、大体1991年の夏ごろやと思うわ、それまでは確か90年の暴動のとき、暴動のさなか仕事があったで、たしか奈良の業者で質の悪い業者の車一台燃やされていた。手配に来てて変なところへ、「金くれゆうたらくれへんというて、金出せとか、どうのこうの」というてる間に車燃えたことがいっぺんあったわ。だから、仕事が急激になくなってきたのは、1991年の夏以降だろうと思います。
まあ不況になったらまず最初に年いったもんから、体の悪いもんから切られていくわな。それだけでなく業者が釜に来なくなりだした。一番ええ例が「渥美組」や、看板とかチラシで直接車もって来て、手配しなくなりだした。この1991年以降減ってきた、最たるもんが「渥美組」や、全国で7ヶ所飯場があるわな、埼玉県に静岡、愛知、大阪に2ヶ所と京都・岡山、それと出張所として福岡県にあるわけです。これがほぼもう釜に来てない、昔みたいに。昔は入り口のパン売ってるところに手配が来てたけれど、いまチラシや看板で直接手配していてもうほとんど釜に来ないようになりました。
1980年からおれらは単価を上げろという事でやったために、東京の山谷とか寿、笹島より単価がよくなったんやね釜は、だから業者はあんな高い釜みたいなとこに行きたくないわ、という風にズーとゆうてた。実際にもう払われへんでとそういうて離れたかったんだけれど、バブルのときは人送ったらなんぼでも人がいったわけです。
関西にいればコンクリ打ちあるし、色んな仕事あるし、高速道路はドンドン造るはであったから、釜には来たくなかったけれど、来ざるをえなかった。だけどもバブルで失業者が多くなってるから、関西一円から三重県や滋賀県から来てた業者も、地元の失業した労働者を使うようになりだした。
何故そういう風になってきたかというと、一つは、わしら仕事にいった昼飯代はどないした、電車賃はどないしたんや言うわな、10時と3時の一服どないすんねん、ところが地元のもん使こたら弁当自分でもって来る、交通費くれとはいわへん、10時と3時の一服ひつこく言わないわな、なんで雨降ってまで仕事するのかとはいわへん、カッパも自分で持ってくる。
釜では自分でカッパもっていくものは現金で来るのにほとんどいないわ、そういうのと現金の仕事でも、毎日払わんでも一週間払いとか、一ヶ月でも待ってくれるわけだ、地元の人やったら。だけどわしらは現金で行って、滋賀県まで行って電車賃もくれんは、メシ代もくれんは、日当もくれんはということやったら、それこそ現場で寝かせてもらい、明日もう一度働かせてもらうは、ということになるわな。帰りの電車賃はないわ、ドヤ代はないはとなればどうしようもないは、「そんなお前、現金で来てるんやからその日くれ」ということになるわな。ところが、地元の人やったらいえへんわ。だから業者にとっては有利だから本当は釜に来たくないね。
だけどみなも知っているように2月とか3月、それとか9月・10月のときにはやで、地元のもんだけでは一寸しんどいねん。今年の9月・10月は一寸少なかったけれど、2月・3月はそこそこあったよ仕事。
そりゃ野宿して年いったもんは無理やけれど、野宿したりドヤに住んでるもんは、仕事いけるくらいあったという風に思うわけです。そういう意味ではまだ釜ヶ崎というのは、労働者の貯水池の役目を果たしてるんじゃないかなという風な気もします。
釜に仕事なくなったのは不況のせいだけちゃうで。一つは特に土木あたりは機械化をやってやで、手で掘るんじゃなくて、ユンボとかミニユンボとか色んなでてやで、掘り方とかは全部ユンボで出来るん。だからそういう意味で人がいらん、それと高層ビル建てるというたってやで、足場を鉄骨につけて下で足場をつけてくるわけや。鉄骨組んでから足場するというたらバリバリの鳶いるねん。ところがやで平地でしたら誰だって教えてもろたら足場組めるわな、ビデのでなく吊り足場みたいなやつ、だから高層ビルになったら、土間も壁もやで、要するにブロックみたいなのをもってきて貼り付けるわけだ。
梁でもへたうったら長谷工のやったら工法からゆうたらセメントで梁を固めてもって来るわけだ。だからコンクリ打ちもようけいらんわけや、大工もようけいらんわけや、左官屋もようけいらん、もちろん鳶もいらん。そうなったら手元がいらなくなってくるわけ、工法が変わったということで仕事が減ったんは一つの原因じゃないかな。
ほんまは我々は建設産業で大量に仕事にいけて、野宿してるもんが建設産業で働けるということは絶対にありえない。仕事が出たってもう人もいらない工法になってんだから機械化されて、工場で色々壁でも造ったりとか、みなも分かってるわなタイルのついた壁を、クレーンで吊ってつけて溶接してやっていく工法になっている。それとか一寸やたらALCの壁を貼り付けていくわけだよ、土間もそうでしょう、だから人手が要らなくなる。
建設産業で労働者が仕事なんぼ増えたとしても、公共事業が増えたとしても、我々が働けるような状態にない。青カンとアブレとの関係というのは、釜の中で一番先に「いらんは」といわれるもんは、年いってるもんと、病弱のもんと、「障害」者の仲間や、これは手配師の顔つけの選別でやられるわけ。体力のない年いったもんは一番先に「お前いらんは」これで終わりや、「また明日も頼むは」というても、「明日もないぞ」といわれたら終わりや。
朝の4時ごろから毎日5回ぐらい断られたら、明日から行きたくなくなるぞ5日位連続でね。現実にいまそうやね、朝の4時前から起きて「仕事ないか」いうて「ない」、「ない」と、毎日5件ぐらい断られたらセンターに出て行っても、しゃないという風になるんです。それがいまの現状なんです。
いままではどうかというたら、年末年始と4月・6月から始まってくる梅雨時はたしかに仕事はなかった。それ以外は何とかなってん。昔は梅雨とか、正月前後を何とか乗り越したら、1月のえべっさんのあと済んだら出張行く気があったら何とかなるわ、でもいまは何とかならへん。
一旦青カンしたらもういっぺん仕事にいける体力にそう簡単にならへん、昔みたいに仕事があってぼちぼち片付け仕事から、出張の楽な仕事があって、徐々に体を慣らしたら仕事にいけるけれど、真夏にいきなり仕事に出たけれどもやで、飯まともに喰うてなかったらフラフラになってコン打ちなんか出けへん、一輪車で押されてよおけ積まれたらパターンと一緒に倒れてしまう。こんなんでは現実に仕事になれへん、現実にはね。
だから仕事が大量に出たとしても青カンにいったら自分に体力がないから、一寸考えてしまうというのが実際の話。そういう状態とちゃうかなと思うんです。
いま大阪市内でどれくらいの野宿者がいてるかというと、一万人以上いてるんちゃうかと、府内で堺・枚方とか300人とか500人いてるとことかを交えて、大体1万5千人近く野宿してるもんがいてるんちゃうかな。
阿倍野とか天王寺とか近辺含めて、中央区とか、浪速区含めて釜ヶ崎の周辺大体5千人くらい青カン、野宿してるもんがいてるんちゃうかと、それくらいが現状違うかという風に思われてます。
釜の中でというか日雇い労働者のアブレ対策、失業対策というのはどういうものがあるかというたら、はっきりと公的なものというと手帳しかない、白手帳しか。ところがやで白手帳というのは二ヶ月で26枚の印紙はらな意味ないね。二ヶ月で25枚で1枚足らんかっても雇用保険もらわれへんわけ。もらわれへんからというてやでヤミ印紙を張るもんが増えたということでやで、特に93〜4年にものすごい締め付けをしよったんや職安が、締め付けしてどのくらい減ったかというたら、一番手帳が多かったのは1987年かな、これで大体2万4千458人いてた。一番少なかったんはいつかと言うたら1994年の1万2千300人、実際どれくらい減ったかというたら、1万2千人減ったんやで、半分になった。二人に一人手帳持たんようになった。釜ヶ崎の人口の半分が手帳を取り上げられた。一番仕事がなくなった93年、94年くらいに手帳で何とか食いつないでヤミ印紙の割り印をもってやってた奴を、業者を取り締まるんではなくて、ヤミ印紙を買うたということで買うた方がやられる、ほとんど業者よりも、それで1万2千人も手帳取り上げられた。
それで釜の労働者の一級印紙というのは1万1千300円で、一級印紙貼ったら7500円もらえる。二級は6200円、三級はそれ以下4200円という風になります。だから一ヶ月に10日くらいしか働けへんかったら、印紙代だけ引かれるだけで実際腹立つだけなんや。
いまの釜やったら清掃に来てたら給料から引いてくれるよってにまだええで、神明だとか他へいったら引かれるがな、印紙代300円引くで、200円引くでと引かれる。金引かれるんやけれどアブレに報われへんのは、いまの釜の労働者の現状じゃないかなと、いや要するにアブレをバンバン取り締まるんやったら、ヤミ印紙あかんと言うんやったら、印紙貼るだけの仕事を大阪府労働部がだしゃ言い訳だよ仕事を、無いから何とかメシ喰わなあかんということで印紙張ったら手帳取り上げられるわけ。したらやで、いままでもろた3倍払わな手帳帰してくれへんねん、10万円のヤミ印紙張ったら30万返えさなあかんのや、こういうことになってる。
「こらお前手帳取り上げたやろ」と職安に言うたらどういうかとうと、「預かってるだけです」と、「金もって来たら返します」と、「内は預かりたくないんです」と、「早く金を返すように言うてください」こんなんや、それであそこの職安は大体2年に一回代わるんです。2年以上いてない、それで仕事紹介しないでしょう、金だけ払ろうてるだけなんや。
ムカっ腹立つときがある、おれ眼が悪うなってね雪目というのになって、医療用のサングラスかけてたん「サングラスとれというね」、ところで釜で唯一写真貼ってなかったんは俺だけやってん、2万4千人いてて写真貼ってなかったのは俺だけやった、俺はウダウダいうて貼らなかった。何で貼らんかったというと、向こうなんでか知らんけど写真紛失したという、警察に見せた後4枚の写真が返ってこないんです。「警察に皆持っていかれたということやないか」というと、「いやそういうこと無いでしょう」というけれど、「警察に見せた後なくなったといってんだから、俺は撮らんぞ」と、「また警察に渡されるんやないか」ということで撮らんということで、写真は貼らんかった。
だから「メガネとって何で確認するねん」といった。写真があったら確認できるはな、向こうはそもそも俺を知ってるわけ、手帳を見る前から向こうは「藤井さんそういわんとメガネはずしてやって下さいよ」と、俺を知ってるんやったら確認する必要はないわけ、なのに「取れ」という。「取らんかったらアブレ賃渡さん」というから俺は「いらん」という、「メガネをはずさん限り金を払えません」と一筆書いてくれたらええからと、そしたらどうしたかというたら、金と手帳をガムテープで貼ってパァ―と窓から20メートル位ほりやがってやで、こっちは取りにいかなしゃない、その間にシャッターを全部閉めやがって、開かずの扉こんなことするんやで実際。
俺は警察に言ういうたん、はじめに警察呼ぶ言うたんで、「呼んだえらええがな」「呼んでくれたほうがハッキリするで」と、「誰が俺の写真無くしたんかハッキリしようや」というたらパァ―と投げよるんや。俺がやられるということはみんなやられるんや。要するに組合の人間というのがわかって、なおかつ「ヘタ売ったら暴力的に対応するか分からん」もんに対してそれくらいするんやから他のもんにもやるんです。
愛隣職安でアバラと足の骨折られたもんがいる。手帳の出し方悪いというてなかに入れないで、ただこっちも裁判やったんだけれども、本人が途中でケツ割って金もうて解決してしもうた。弁護士は100%勝つのになといったんだけれども、警察がなかに入って、本人に金払ろうて職安の職員が金払ろうて解決してしまった例があります。まあ手帳いうてもそんなもんにしかなれへん。
91年から仕事が無くなり何とかせなあかんなという、どないしょう・どないしようという話をしてた。そういう皆が何とかせなあかんなというてるあいだに、92年4月3日に出来島と思うけれど、西淀川にある林建設の車がガソリンかけられて燃やされてしまう、この手配師というのは俺は昔から知ってて、この林建設の前の飯場、メチャメチャわるい堺のほうにある、確か「カイシン」かなんか言う飯場で質悪いねん、そこで質悪い言うて首になったくらいの手配師やねん。
それでこの油かけられたときにどないしてたかというたら、車の前のところに足バーンと振り上げてもたれてた、車をリクライニングにしてて、車に火つけたもんが「こらお前降りるんか、謝るかせんかったらおら本気でやるんやぞ」というたから、乗ってるほかの労働者に「お前ら降りろ」というたから逃げたんや、ところがこの殴った手配師が横着かまして「おおこらやらんかい」というたんでパーとかけられた。そしたらパーと燃え出して逃げよと思ったんやけれど屋根の上にかけたもんやから、トユみたいな所からザーと流れ落ち、本人の背中にガソリンが落ちてきて火がついた。
俺はそれを知らずにやで火ついて走って来たもんやから、センターのマルの求人やってるところに来たもんやから、しゃないから捕まえて倒して酒売ってるところで水借りて消してやった。知らんもんやからなんか分からんで火ついて走って来よったから、後から聞いた話では林組の手配師が横着かまして火をつけられたという話でした。これはたしかに火つけた本人が悪いけれども、事情が事情やから何とか応援したらなあかんなというメンバーもいてて、裁判の弁護士は直接つけられなかったけれど、色んな形で応援しました。
これで何とかせなあかんということで、医療センターのところで布団敷きをやったり、組合で炊き出しをやったりして、色々と何とかしようとセンターに行ったり押しかけたり、市更相に行ったりしました。そうこうしてるなかで市更相に仕事ないんやから、何とか生活保護で何とかせんかいと言うてたら、市更相は何を考えたのか知らんけれど来たもんに1500円くらい渡しよった。そしたら二日くらい立ったら2000人くらい並んだわな釜の人間と違うもんまでくるねん、関係ない、並んだらくれるんやから、誰が見ても日雇いと違うもんが並んでるオバちゃん連中で、だけども払ろうたわけだよ。
ところが後から聞いてもろてないもんもいてたんや、俺らは金を貸すなというた、そうじゃなくてほんまに困ってるもんやったらメシ券、食堂のどこかと契約してセンターの上なり、色んなことして食券出せ、ドヤと話してドヤ券出せというた。そんなら市更相の職員どう言うたかというたら、「返ってけえへんがなそんなことしたら」というた、だけどこの1500円の金返って来てないで、金のない青カンのものに金貸してるねん、返す当てが無いわけ。ところが1500円でドヤに行けというたかて、10時ごろ1500円借りたら、まあメシとドヤと1500円でやで、メシ喰うたらドヤに泊まられへん、当時1300円くらいがドヤの相場やった。ドヤに泊まったらメシ食われへんだから隣の「マンダ」屋の酒屋で酒飲んだもんが多かった。
「マンダ」屋の酒屋のおっさんがなんていうて怒ったか、「売れすぎてわし病気になるがな、ワンカップ入れるのに」というて、手がこうなってと文句いいに言ったこれ事実らしい。隣の「マンダ」屋のおっさん怒ってきたと、要するに入れなあかんのによその人の酒は売られへんはと、そういう状態もあったりしてその年から一応何とかせなあかんということで、「勝ちとる会」を中心にして三角公園で炊き出しをやった。
この炊き出しに大体2000人くらい並びましたわ、2000人くらい毎日のようにそれでいまみたいに火・木・土かなまあ二回とか三角公園でやるまでは、暴動までは釜日労が医療センターの前で布団敷きと炊き出しをやってたんです。この暴動が起こったから労働部も大阪市はちょっと痛い目にあってわかったんか、まあ一応何とか年寄りの仕事を、年いったもんの仕事何とかせなあかんということで少しは考え出した。
おいらもバラバラで釜日労だけ単独でやっただけではなめられるなと、幅広い緩やかに色々と考え方があるもんが集まってやろうやないかと、組合だけやったら頭硬なるか分からんから、もっと幅広くやれるようにしようということで、釜の労働者の問題一緒にやろうということで「医療連」とか、「協友会」とか「勝ちとる会」と釜日労、「野宿者ネットワーク」とかそういうところとキリスト教とか含めて反失連、釜ヶ崎反失業連絡会を作りました。これでまあ闘いをやって来ました。
94年にセンターの前を夜間開放しろという要求とか、仕事出せといったんだけど、まあ大阪府はシャッター開けるというのは夢物語で、何いうてまんねんと。センターというのは働くもんの場所であって、青カンするものの場所違うで、という風に言うてたわけです。まあだけどもセンターのところに座り込んだり、なんかしてるあいだに勝手にシャッター閉められてん。閉めてるから「何でシャッター閉めるんや」というたら何考えたんか知らんけど、シャッター閉めてる最中にワァ―と声かけて北の詰め所の方へ逃げよる、ワァーというてるから何かいなと思うてシャッター閉めてるもんの後ろを見たら、何人かで走っていきよった。
そしたら逃げ後れたもんはモップとデッキブラシの柄を持ってきて突き出して来よったんや向こうのもんが、そしたら「何さらすねん」となるわな、そしてつかみ合いになり一人が横の扉のところにボーンと打った。これが全治一週間の怪我、これで3人逮捕された。俺は威力業務妨害罪、「何でシャッター閉めてんねん」というたので、相手に恐怖を与えたらしい、実刑で執行猶予なし。11ヶ月か12ヶ月入れられて執行猶予なしで実刑食らった、通算もちの通算でチャラ、俺以外のものは一人は放火なんや、もう一人は傷害がついているんや、だけどもなんで俺が一番多いかっていうたら、「お前が指揮者やった全体の指揮者やから責任とってもらわんと」という話、ところがなにもやってない、「何でシャッター閉めてん、閉めるんやったら何処開けてるんか言うとけ」というただけ。
これが威力業務妨害にあたってるこんなんで逮捕されたらたまらんで、実際には逮捕されたが。それで実刑6ヶ月、これでシャッター開いたんとその年の11月から市が10人、府が10人の仕事が出たわけです。
1993年の9月に大阪府に請願51号議案を出した、これが大阪府議会に取り上げられ、これを契機にマスコミが釜の高齢者対策問題を書いたりとかしました。
1994年の3月に大阪府の福祉協議会が持たれ、釜の高齢者の仕事の問題をやるということを確約させました。このセンターの一階にあるシャッターを梅雨時とか、94年以降もシャッター開放させたりしました。
ところがこのときの寝るシートとか毛布とかマットとかは全部反失連が持ったんです。大阪市はマット一枚も出さなかった。98年の11月に大阪市がいまの「ハン食堂」の裏のグランドの土地を貸すから使ってくださいということで、このときも土地は貸してくれたがテント代400万円かかったが、これも反失連が持った。この時も毛布一枚、マット一枚も大阪市は出していない。
大阪市はいまだに言うてるのは三徳寮のところのテント村はあれは不法占拠でっせと宣言しときまっせ、と言うことを言っている。たしかに不法占拠や一ヶ月間という約束が五年くらいになっている。そして私らは出て行くといっている、出ていかせて下さいと言っている。向こうは出て行ってとはよういわれへん、その代わりあのテントに寝ている300人分の寝泊りどないしてくれまんねん、してくれたらその方がよろしいです、ということをいっている。ところがそれを言うたら後はなにもせえへん。
センターを閉めるという条件で、南分庁舎に99年に300人クガのテントを大阪市、府の土地に大阪市2000人に三角公園の横の空き地に、これは南海電車・チンチン電車の土地です、ここに600人規模のセンターを一応確保する。
いま釜ヶ崎近辺の公園で大体何処でも、公園という公園にブルーシートのテントがないということは無いわな、無いほうがおかしいくらいある。大体おれの憶測で島さんあたりは違うというかもしれないが、大体65〜70%くらいは何らかの形で釜に来たりとか、昔来たことがあるとか、それとか釜の労働者がいてる人夫出し飯場、釜に来ていないけれど釜の労働者がいてる人夫出し飯場とか、そういうところで働いたことがある人が、70%くらいかなと思っています。
釜以外の人がいてるところはどこかというと梅田の近辺北区、西区、中央区の東区、旧東区あたりは釜の全く関係ないという人が増えてきています。
こういう仕事がないときは今まであったかというとあった。オイルショックで74年、75年くらいにあった、そのときは釜の労働者はいまより15歳くらい若かった、だから釜以外のところで働いた。釜以外のところは多少仕事もあった。いまは釜にいようが、沖縄に行こうが、北海道に行こうが、四国に行こうが仕事ないわけ。そういう状態になっているからもう青カンから抜けるといったって、もうどうしようもない。
いま釜の地で野宿してるもんが、どういう形で生きているかといったら、腹立つけれどコンビニで期限切れの弁当もろたりやで、ダンボールやアルミ缶集める生活してるんやけれど、ダンボールたって1s5円位や、アルミ缶かてようもうても90円くらいでしょう。よう集めて一日1000円。ダンボールで一日1000円無理や、一日いま競争相手あるから、一日回って1000円やろ。それで夏あたりにバテたらやで、明日はメシ代ないわけ。ところがやで夏、暑いからってやで日陰で寝てたら、あの人らこのくそ暑いときに日陰で寝られてええなと、夜アルミ缶集めるんやで、誰でも夜集めに仕事行ったら昼寝るがな、ところが世間はそういう風に見てるわけ、それは大阪市が実態を知っててもいわへん。野宿してる人はどういう形でメシ食ってるんか言わへん、言うたら労働政策ちゃんとせなあかん、ちゃんと福祉政策せなあかんからいわへん、世間に知られたら困る、それと腹立つのは長居のシェルター建設のときやで、インターネットに長居周辺で女性がレイプされたとインターネットに流れた。現実に調べたけれど無かった。
ところがインターネットに載ったら消えへんのやで、そういうことをやられてるんですよ。それは行政が長居のことでもちゃんと野宿してた人と、地域の人たちと話し合いをする場所を持てと言うてたのにもたんかった、だから排除するような色んな人が出てきたから、2万人くらいの人が署名してやで、長居をまともな公園にせいという風な署名運動が起こるわけです。これもやっぱり大阪市がきちっとしたことをしなかったことが問題であったと思います。
今後シェルター建設とか色々あるんだけれど、大阪市のいまのやり方だったら出口が無いからね、自立せよといっても出口がないんですよ。公的な仕事が無ければあかん、職安に仕事探しにいけといっても、大学出たもんが仕事ないのに、大学出てないわ、何の資格も無いわしらが対等に争うて勝てるわけがない。またパソコン使えるわけはないでしょう。
政府がいうてる仕事に就かれへん、だからいま一番やらなあかんというのはリサイクル産業とか、公的に起こしてこういうところで日雇い労働者が働けるような、要するに公的な仕事がなければ絶対無理なんや。一般のものと争うて仕事を職安にいって探せというのは不可能や。
一寸時間が過ぎました。いま大阪城で2ヶ月以上座り込み闘争やってるんですけれど、緊急に何とか仕事出して欲しいといってんだけれど、大阪市も府もまだ動こうとしない。こないだも東京に勝利号でいったんだけれども補正予算含めて動かないということで、ぜひともいまは一般の人も仕事ない、一般の人もリサイクル産業を起こせば北海道から沖縄までいったら、ものすごい仕事出ると思うんです。
こう言うことを一緒に運動やれることがあれば、是非、共にやってもらいたいのと、いま大阪城での闘争に資金がものすごく底をついています。米もなくなって、寒くなってきて毛布も足らなくなってきています、その辺のところの協力をよろしくお願いします。長くなってすいません。(拍手)
[司会]
いま病気と闘いながら、藤井さんが釜に来てからの闘いと、その思いについて語ってもらいました。どうもありがとうございました
藤井 利明 (釜日労・釜反失連)
釜ヶ崎講座第4回(02・12・7)