フィオレンティーナ 〜 アズーリ




 1986年1月26日
 レッチェVSフィオレンティーナ戦で初のベンチ入りをするが出場の
 機会には恵まれなかった
 1月29日
 コッパ・イタリアのフィオレンティーナVSウディネーゼ戦で
 フィオレンティーナの選手としてデヴュー・後半残り17分間だけプレーする
 その後、謝肉祭の時期にヴィアレッジョでのユース国際トーナメントに
 フィオレンティーナ・ユースとして出場しかし右膝の回復が思わしくなく
 この無理がたたって再び戦列を離れる事となる
 1986年9月3日 - 19歳 
 コッパ・イタリア フィオレンティーナVSエンポリ戦 ( 2-1 )
 で2ゴールを決める
 9月17日
 UEFA杯 フィオレンティーナVSボアヴィスタ戦 ( 1-0 )に出場
 ヨーロッパ・デヴューを果たす
 9月21日
 セリエA デヴュー フィオレンティーナVSサンプドリア ( 2-0 )
 その後、再び半月板を損傷
 12月18日
 再度フランス・サンテチェンヌでブスケ教授の手術を受ける
 2回目の手術で半月板が無くなり、バッジョは、それまでとは全く違った動きを
 関節や膝に憶えさせなければならなかった。 一から出直しである
 当時フィオレンティーナのバレッティ会長がスポーツ・リハビリの第一人者 
 カルロ・ヴィットーリ医師とイタリア最高のフィジカル・ドクターと呼ばれる
 ロカテッリ医師にバッジョのリハビリを託した
 また、バレッティ会長はバッジョの両親を呼び寄せバッジョのそばにいられるよう 
 手配を整えました
 この時の事をバッジョは 「リハビリ・練習・自己犠牲で忍耐が非常に必要だった」
 と語っています
 以後、懸命にリハビリに励むが内心は自分の将来にとても不安を感じ人知れず
 不眠症 ・ その他、深刻な問題に悩み抜いていた辛い時期でした
 この頃、友人のM氏から仏教の日蓮大聖人の教えについて話を聞かされます
 M氏は、イタリアSGI ( イタリア創価学会インターナショナル )
 のメンバーなのでした 
 
当初バッジョは、「時には殴ってやろうかと思いました
 しつこいし、ありがた迷惑だと感じていました」
 また 「人の弱みにつけ込んで宗教の話しをするなんてと心底腹を
 立てました」と強く反発しました
 その後1年に渡りM氏はバッジョに仏法対話を繰り返します 
 1987年4月26日 - 20歳
 対インテル戦で復帰。 後半30分にディ・キアラと交代出場する
 バッジョは、「どのゲ―ムに出場したかよりも、走って膝に痛みを感じなかった
 事が、私にとって大きな勝利だった」 と語っている
 そして、その源泉は 情熱 であり
 他人の NO は、自分の YES であると確信し
 「再び、プレ―するという強い欲望を持って挑んだ」
 「生命の躍動を見出す事、それが私にとって基本的な事」であると語る
 5月3日
 対トリノ戦で11番をつけ先発出場
 5月10日
 ディエゴ・マラドーナ率いるナポリとアウェーで対戦
 フリーキックでA初ゴールを決める
 1987年9月7日
 チェザーレ・マルディーニ率いるイタリア21歳以下代表 ( U-21 ) に選出される
 9月20日
 第3節 ミラノ - スタジオ・ジュゼッペメアッツァでのA.Cミラン戦でラモン・ディアス
 ( 前横浜マリノス ) に続きゴールを決める
 ハーフラインから素晴らしいドリブルでミランDF陣を切り裂き
 GKをかわす様にボールを 浮かせてゴールネットを揺らした
 バッジョはゴールを決めるとフィオレンティーナのティフォージ前に
 駆け寄りひざまずいた
 このゴールからロベルト・バッジョは更なる注目を集めるようになる
 この頃も引き続きM氏は、バッジョに仏法の話しをしていたがやがてバッジョに
 仏法の話しをしなくなる

 逆にバッジョがM氏に、その事について聞くとM氏は
 「話す事は全て話したよ後は実践するだけさ
 どんなものか知るには試す以外にないだろう」と言いました
 そして、クリスマスの頃にはバッジョは一度真剣にM氏の話しを
 聞いてみようと思い始めていたのでした
 1988年1月1日 朝10時
 M氏は自宅のドアをノックする音に目を覚ましドアを開けると
 そこに真剣な表情をして立っていたのは ロベルト・バッジョ であった
 M氏は大晦日のパーティーで二日酔いではあったが、こう尋ねた
 M氏「なんだい元旦早々」
 B「前から君が言っていた仏法をやってみようと思うんだ」
 M氏は二日酔いも覚めるほど驚いたが、こう言った
 「1年365日もあるのに、よりによってなんでこんな日に来たんだい・・」
 そして、バッジョは日蓮大聖人の南妙法蓮華経を唱え始める
 当初はM氏に強く反発していたバッジョだったがM氏のすすめる本を読み
 また、M氏の仏法の話しをする時の表情のよさに
 次第にかたくなになっていた心が
 仏法へと傾き出していたのである
 後年、バッジョは 「M氏が、大きな情熱と幸福感をもって話してくれ」
 「自分自身を、より知るための手助け」
 をしてくれるという事実に心を打たれたと語っている
 バッジョは日蓮大聖人の仏法とイタリアSGIのメンバーに出会い
 身の不運を嘆くより立ち向かう術を学んだ
 バッジョは語る「自分の殻に閉じこもりがちだった私が
 皆に心が開いていくのが分りました
 自分の中で確かに何かが変わって行くのが実感できたんです」と
 1987-88シーズンバッジョはミラン戦でこそ伝説のゴールを決めたものの
 その後はボジションもMFからライト・ウィングへと移り
 次第にベンチに落ち着く事が多くなってきた
 しかし、対ペスカラ戦 0-1 で
敗色濃厚の試合終了2分前
 ついにバッジョは出場
 渾身のプレーをし同点となるP.Kを決めチームを敗北の危機から救った
 1988年5月29日 - 21歳
 ディノ・ゾフひきいるソウル・オリンピック予選代表メンバーに選出される
 ( しかし本選メンバーには選出されず)
 1988年10月19日
 アゼリオ・ヴィチーニひきいるアズーリ - イタリアA代表に初選出
 ある金曜日の朝、チ―ム関係者よりアズ―リ入りを告げられる
 バッジョ は、天井にも届かんばかりに歓び飛び上ったという
 ペスカラでのノルウェーとの親善試合だったが出場の機会には恵まれなかった
 そして、この日
 M氏はバッジョに「イタリア代表に選ばれた名誉ある日をイタリア創価学会の
 入信記念日にしよう」と提案
 バッジョも「そうして下さい」と快諾し正式にイタリア創価学会の会員となった