法話10
「心に響くことばD」
「南無阿弥陀仏とは言葉となった仏なのです」
この言葉は、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。仏さまといえば、木像や絵像をイメージされる方も多いのではないでしょうか。そして仏さまを拝むときには、木像や絵像に向かって手を合わせます。そのときには、木像や絵像をご安置しているお寺の本堂や、家庭のお仏壇の前という場所が必要になります。私たちが称える「南無阿弥陀仏」は言葉となった仏さまなのです。言葉となった仏さまは場所を選びません。どこにいても南無阿弥陀仏と称えれば、その大慈悲心にふれ、包まれることができます。
私が、この「南無阿弥陀仏とは言葉となった仏さまなのです」というフレーズを初めて聞いたのは、ずいぶん前のことです。
その同朋運動の研修会において聞かせていただきました。「南無阿弥陀仏という言葉になった仏さまから、言葉によるはたらき、つまり救いをいただいている。それなのに私たちは、言葉によって人を傷つけたり、差別していることがあるのではないか。
これは言葉の仏さまを裏切っていることになります」といった内容だったと記憶しています。それを聞いて、私はお寺の封筒の前面に「ことばのひびさはこころのひびき」という言葉を印刷しました。
しかし私たち人間は、遠い昔に言葉を身につけ、言葉を駆使してお互いの意思を伝達し合い、コミュニケーションをはかってきました。
私たちが社会生活を営んでいくためには言葉は必要不可欠なものです。言葉で相手を褒め、たたえることによってお互いが喜びを分かち合うこともあるでしょう。しかし、その言葉が通じ合わないことからお互いが苦しむことも事実です。過去の身分制社会が作り出した部落差別を引きずり、賎称語を使って人として生きる権利を迫害したり、体の欠陥や容姿、仕事を椰熟した言い回しで悲しい思いをさせたりと、乱暴な言葉遣いによって人を苦しめていることがあります。同朋連動の研修会では、悲しい、苦しい思いをした方がたから直接話を聞かせていただき、学び、気付いたことがたくさんありました。
ここでもう一度冒頭の一重をいただきますと、「南無阿弥陀仏」は、私たちの使っている言葉の持つ善悪や限界を超えた仏のはたらきです。常に称えましょう。称えることによって、私が私という自己自身に目覚めていくことができるのではないでしょうか。