法話11
「やさしい法話1」 六.浄土真宗とお守り
日本人はお守りが好きだといわれます。厄除けや開運のお札はいたるところの神社や寺院で発行されています。それも一年限りの有効期間があるのか? と思えるものさえあります。発行する側にそんなつもりはなくても、それを受ける側が、新年の初詣でのしるしにお札を受けなければ、安心して一年が過ごせないと思うことが、新年と共に新しいお札の発行という形になってしまったのでしょうか。しかもそれを一カ所ではなく、神様であれ、仏様であれ、おかまいなしに何カ所からも受けないと安心出来ないという人もあります。
いずれにしても、これは人間のもろさを証明したようなもので、お守りでそのもろさをカバーしようというのだから、むしろいじらしいではないかといえばそれまでかも知れません。
しかし私はここにも人間のどん欲さを見逃せないのです。日頃は神とも仏とも思われない横着な日暮しをしておいて、お札さえ受けておけば何かの時には都合よく守ってもらえるだろうというようなむしのいい考え方や、またそうした人間の心を逆に利用した商業主義的な神社や寺院のやり方が、とてもたまらない気がします。
浄土真宗には厄除けや、開運のお札を発行するということは断じてありません。では仏様がおまもり下さるという御利益はないのかといえばそうではありません。「南無阿弥陀仏」という六字のお名号、これこそが私達にとって唯一無上のおまもりです。親鸞聖人もはっきりと現世利益和讃の中に
南無阿弥陀仏をとなふれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまふなり
と示されています。しかしこれはただ口先で称えていればよいということではなく、み仏が私達のために、何を願い、何をお誓い下さったか、そのまことの心をききわけた上で、それにうなずいた称名でなければなりません。