法話13
「やさしい法話F」何のために今日を生きるのか
世間一般の人の仏教に対する感じ方は、おおかたの人が、悲観的なものとして受けとっているのではないでしょうか。たとえば「無常」という言葉一つを例にとっても、それはただちに「死」と結びついて、暗く、悲しい響きとしてだけ伝わるようです。
しかし「無常」とは人生を、ありのままに見たことで、要するにこの世の中にある全てのものは、永久に変化しないものは何一つとして存在しないということです。
従って、死ぬとか、亡びることだけが無常ではなく、生まれることも、進歩し、発展することもまた無常だからこそであります。
しかしいずれにしてもそれが、永久性がないために、私達はいつも不安な思いにとりつかれます。それを解決するにはどうすればよいかといいますと、幸い人間に与えられた認識能力は、生とか死とか、美や醜、善とか悪等の範囲だけに止まらず、もっとそれらを超越した世界を認識出来る、極めてすぐれたものであることに気付くことがまず第一に大切です。そうすれば必ず、永遠に変わらない「まことなるもの」を求める心が動き出すはずです。これを宗教心といってよいでしょう。
こうした心の動き出し方は、人それぞれに違いがあります。幼い時からの環境で、いつとはなしに自然にそなわった人、ある日突然何か重大な問題にぶっつかったのがキッカケとなって求めはじめた人等と様々です。
とにかく私達人間のすぐれた認識能力は、生死の世界をこえて「仏の声」をきくことが出来るのです。そして永遠の真理の世界に生きることが可能なのです。そこに永遠の生命が与えられるのです。私達の認識能力は、人のアラを探したり、目先のちっぽけな利益を追求するために与えられたのではないはずです。永遠の生命を認識するためです。
私達は何のために今日を生きるのでしょうか。やがて全てを失うためにではありません。永遠の今を生きるためです。
「南無阿弥陀仏」