法話20

「心に響くことばI」

九月のことばの中でご自身のことを告白してくださった友人と、次のような話をしました。
友「念仏しなさい、念仏しなさい。どの布教使さんもおっしゃいますが、どのような心で称えたらいいのでしょうかねぇ」
私「ずいぶん長い間お聴聞を重ねてこられたあなたですから、念仏が商売繁盛、無病息災、家内安全など、自分の欲を満たすために称えるものではないことは、よくご存じですよね」
友「はい、それはよくわかっています」
私「では、なぜ先はどのような言葉になったのでしょう」
友 「はい、親切にしてくださった方かたに、口では感謝の言葉を申していますが、心の中には、全く逆の思いを持っている。まことのひとかけらもない私なのです」
私「そこが大事なところで、まず、念仏申すということは、自分自身を見つめることだと思うのです。もう少し詳しく言えば、阿弥陀さまの法を聞き、自身を見つめ、自分自身と出会い続けていくことだと思います」
友 「なんとなくわかります。でも阿弥陀さまの法の中で出会った、まことのひとかけらもない私は、清らかで澄んだ心、つまり心を整えてお念仏申すことができない。果たしてこのような念仏で仏になれるのでしょうが」
私「心を整えないといけない念仏ということになると、整えることのできる人、そうでない人という区別が生まれます」
友 「そうか、そうですよね。すべての人びと(一切衆生)を仏にするという阿弥陀さまの誓いから外れてしまいますね」
私「そうです。でもおっしゃりたいことはよくわかります。ただ念仏しているだけでは頼りない。道徳的に正しくない自分が称える念仏は無効ではないのか? 本当にこれでいいのかと不安になったり…:といった具合に、自分の考えやはからいを差し挟むことになります。実はそこが問われるのです。
親鷲さまの師である法然さまは、聞き慣れない言葉ですが、「すけささぬ念仏」という言葉を使って教えてくださいます」これは、何ら私のはからい、考えは全く必要としない念仏ということです」
友「そうか、私はつい自分で良い行いをして仏になろうとしていたのですね」
私「そうです。つまりは念仏を自分の行いとしている。それは自分自身(自我)をあてにしていることになります。念仏は、阿弥陀さまの誓いが私に届いて称えられたのです。そこには自分のはからいはなく、ただ阿弥陀さまの誓いに自己をすっかりあずける、まかせる、ということだと私は思います」