法話8

「心に響くことばC」

善導大師は『仏説観無量寿経』を解釈された『観経疏』の中で、
「お経はお釈迦さまの教えであり、私を映し出す鏡のようなものである。幾度も読み、その心を尋ねるならば、智慧をいただくことができる」
とお示しくださってます。
「お経は鏡」と喩えられたその鏡には、どのような私の姿()が映るのでしょうか。
一つは「生老病死」という我が身の真実。また、多くの人びとに支えられ、多くのいのちを犠牲にしてしか生きることができない私が映ります。
もう一つは、凡夫である私の姿です。凡夫は常に自己中心。私たちは、社会の中でさまざまな立場の人たちと暮らしており、ときとして考え方の違う人と出会い、対立することも少なくありません。そのとき自己中心の私は「正しいのは私」と自分の正義を主張し、相手を責めます。相手もそうですから、対立がますます激しくなり、争いになってしまいます。
同じように、国と国とがお互いの正義を振りかざし、相手国を非難し対立する。ついには武器を持って攻撃しあうと、戦争ということになります。それは、自国の正義のために人を殺すということに繋がります。
仏さまの智慧をいただくとは、「自分は自己中心の凡夫である」ということを聞くことです。でも親鷲聖人は、どれだけ聞いても、凡夫は死ぬまで凡夫だとおっしゃいます。しかし、自己中心ではあるけれども、そういう生き方しかできていなかった自分に気が付くことができる。それが、お聴聞、すなわちお経の心を尋ねた成果です。
凡夫であることを自覚したら、今までの生き方が自己中心で、恥ずかしいものだと気付きます。そうすると、「今まで、この道でよしとまっすぐ進んていたけれど、ちょっと方向を変えて、恥ずかしくない生き方をしてみよう」と変わっていく。仏法の鏡は、私自身を映し出し、私が私として生きる方向性を指し示してくださっているのです。