法話10
「心に響くことば」C
大学の早い夏休みが始まろうとしていた。
この日も各自の講義が終わると、三々五々学食に集まり退屈と戯れていた。
「夏は肝だめしだろ」と言った。というわけで我々はろうそくを買い、都心にあるA山墓地へ向かった。百八十五センチ九十キロ。巨体を誇るMを先頭に、じりじりと墓地へ入って行った。
まさに深い闇。ろうそくの灯りに照らされ、時々墓石群が浮かび上がる。コウモリがひらひら舞い、都会の喧喋が遠ざかり会話も途切れる。全てを吸い込んでしまいそうな闇の中で、土を踏むコンパースの音だけが響いた。
突如、予想だにしない悲劇が起きた。先頭のMが「おしっこ」と言って、ろうそくを放り出し、もと来た方角へ一目散に駆け去ったのだ。更に悪いことに、放り出したろうそくが地面に転がり、風に吹かれて消えてしまった。まさにまっくら。ところが……。僅か数秒の間に闇は消えた。Mが持っていたろうそくの灯りを凝視していた我々は、月と星が放つ柔らかな光に気づいていないだけだったのた。我々は、既に光の中にいた。
自分が手に持つ光は、自身を照らさない。未来とか社会とか他人とか、自分の外側を照らそうとする。それどころか、手元の明かりを強くすればするほど、外からの光に気づけない。自分の力で光らせているものが弱まった時、やっと自分を照らす光があったと気づく。だから、自分の光だけを頼りにしている間は、なかなか仏さまの光(智慧)を素直に受け取れない。
既に仏さまの光に包まれていることに気づかされるのは、自力の光が揺らいだ時だ。その瞬間、仏さまの光は私たちの心に、消えない温もりとして灯ってくださる。それは弱きや醜さも照らすが、同時にあたたかい。仏の救いは、私の努力を求めない。仏さまが欲望だらけの私を受け入れてくれるから、私も自分を受け入れることができる。やっと安心できる光に出遇える。
あれから三十五年。私を含めA山墓地探検隊の面々は、今ももがき続けている。時々、深い闇にも出会う。一生それは変わらないだろう。だからこそ、照らしてくれる光が嬉しい。