法話12

「やさしい法話A」

仏前や墓前に供える生花の意味は、み仏の大慈悲を象徴している、ということですが、もう一つの意味が、比の世の無常をあらためて確認するため、と言われています。

人間などの動物の場合は、一日で急に老衰してしまうなどということはほとんどありませんが、花のようなものは、多くは今日美しく咲いていたものが、一口かせいぜい二、三日の間に枯れ散ってしまいますから、まことに比の世の無常という事実を端的に示してくれる、と言ってもよいでしょう。

花というものは、何も人間の眼を楽しませるために美しく咲くわけではなく、種を保有する目的をもって咲いているのですから、交配がすみさえすればいつ枯れ散ってしまっても一向に差しつかえがないのかもしれませんが、人間からみますと、それこそ精一杯に咲き誇っているようにみえます。

それと同じように、人間の場合だって、たとえ何十年生きたところで、本当に自分は精一杯生きているんだ、という毎日を過ごすのでなければ、単に食べて寝てをくり返すだけのむなしい一生を送るだけになってしまうでしょう。

精一杯というのは、世間の高い評価や地位を求めるということではありません。たとえ他の人びとの目に留まりにくい、まことにささやかなことであっても、自分のなすべきことにむかって努力していれば、それはまことに美しくも意味のある人生と言えるのではないでしょうか。

ちょうど、人の眼にもほとんど触れないような山奥で、一本の雑草が小さな花を一生懸命に花開くような、そんな生き方をしてみようではありませんか。