法話16
「やさしい法話A」
真夜中にたった一人で歩いている時、空からふりそそぐ月の光を本当に有り難いと思った、といった経験を持っている人は決して少なくないと思います。
月は、何も人間の歩く道を照らそうと思って光っているわけではありませんが、人間の側がそのように感じた時に、その人の心の中には感謝の気持ちが湧き上ってくるのです。
嬉しい時、淋しい時、悲しい時、楽しい時、月の光は、それを眺める人の心と一緒になって笑ったり泣いたりしてくれているように感じられます。
ところが、何の関心も示さない場合には、事実としては月が照り輝いていたにもかかわらず、月が出ていたことにさえ気がつかないことだってないわけではありません。
同じようなことが、他のあらゆる現象にも言えるのではないでしょうか。
「親が勝手に自分を生んだんだ」と考えている人にとっては、親がかけていてくれるはずの愛情にはまったく気がつきませんから、"生まれてきた"という事実に対して何の喜びもありませんが、「頼みもしないのにようこそ生んで下さったものだ」と考えることのできる人にとっては、まことに親の愛情は有り難く感じられるのです。
阿弥陀仏は、人間のだれをも差別することなく、一人残らずに大きな慈悲と智慧との光をふりそそいで下さっているのですが、そのことに気がつかない限り、その光が有り難いことがわかるはずがないのです。
一日も早くその大きなみ光に気がついて、生かされる喜びにあふれた毎日が送れるように努めようではありませんか。