法話17
「やさしい法話A」
安かりし今日の一日を喜びて み仏の前にぬかづきまつる
生きている限り、"四苦八苦"とまとめて表現されるような、さまざまな苦しいことが、わたしたちには毎日のようにふりかかってきますから、なかなか"安らかな〃境地にはなれないのです。
それどころか、ほとんどの人間にとりましては、毎日が生きるための戦いであり、やれ損した、つまらなかった、つらかった、苦しかった、もうけそこなった、悲しかった、悔いが残った、疲れた、といった、苦しみの連続であるのかもしれません。そこには、楽にしたくても平生心などはありませんから、心が落ち着くひまもないでしょう。
だからこそ、せめて一日に一度、静かに仏壇の前に正座して、この和歌を唱えてみようではありませんか。
「忙しい忙しい」と言って、毎日の日暮らしに追われているだけでは、二度とない人生を生きている意味はないのです。
二度と繰り返すことのできない人間の一生だからこそ、絶対に返ってはこない今日という一日だからこそ、その一日が終わろうとしている時に、その日を反省する意味でも、この歌の含んでいる大きな意味を考えてみる必要があるのです。
たとえ"安らかならざる一日〃であったとしても、たとえ"喜べないような一日〃であったにしても、それは自らの欲望があまりにも激しかったせいだ、と気がついた時に、本当に安らかな一日を送るためには、自分にとって何が大切なのか、ということを考える余裕が出てくるのではないでしょうか。
すでにみ仏となられた自らのご先祖に向かっても、静かに掌を合わせてみようではありませんか。