法話20
「心に響くことば」
「法律が善悪を決めているのではないんです。人々の善悪の感覚に、法律が合わせているのです」
これは、いつもお世話になっているS弁護士の言葉だ。
自殺(以下は、「自死」とします) の、ご遺族の勉強会に参加し、その後、S弁護士との懇親会が持たれた。勉強会では、自死遺族が法外な弁償金を求められるケースがテーマとされた。
たとえば、若い青年がアパートで自死したとしよう。悲嘆にくれる遺族に「この度は淋しくなられました。ただ息子さんは大変なことをしてくれたよ。しばらく借り手がつかないので五年分の家賃、それから不動産の評価が下がるから五〇〇万円を支払って」と電話が掛かってくるのだ。
想像していただきたい。大切な人が急に亡くなった。「なぜ亡くなったの」という問いが頭を離れず、自責の念に襲われて眠れない。正常な判断ができない中で「わかりました」と応じてしまう(対応方法については「自死遺族支援弁護団」のHPを参照のこと。「自死遺族」「賃貸トラブル」で検索可能)。
二千年以上前の古代に誕生した仏教が、自死を悪行としなかったのは例外的だ。何故なのか?釈尊は、病の痛みに苦しんでいる仏弟子を見舞った。鎮痛剤などない時代だ。ひどい苦痛に苦しむ弟子に、いつも通り仏法を説かれ弟子は喜ばれた。その後、弟子は苦痛に耐えきれず自死する。苦痛と闘い続けた弟子を、どうして断罪できよう。釈尊は再び弟子の元を訪れ「立派に修行されました」と彼が生きた時間を顕彰された。自分中心の考えから離れ、相手の身に寄り添って理解しようとする仏教の立場がここに表れている。
S弁護士は
「人間どうしだと、欲望と欲望の調整になってしまいがち」
ともおっしゃった。仏の視点を容れることで、ほんの少しでも自分から離れたまなざしを持って社会に参画する- それが、人間どうしだけでなく、信仰を持った者が仏さまのお智慧を借りて、多様な人びとと共に生きていく姿ではなかろうか。