法話4
「心に響く言葉A」
三千年以上前から、人間は「自分らしさ」を求めてきた。それは、今も変わらない。「自分らしさ」は時代や場所を超えて、大切な価値であり続けている。しかし、同調圧力というものがあって、空気を読まないといけなくて、なかなか自分らしさを表現しにくい。
一人の学生が、こんなことを書いてきた。彼は、母親に「お母さんの自分らしさは?」と尋ねたそうだ。すると母親は「私には無いもの」と答えたという。その言葉を聞いた彼は、〈お母さんは、長い間うつ病をわずらってきました。僕は、お母さんの自分らしさを、お母さんに伝えられていませんでした)と感じたという。そして、
「お母さんの自分らしさはね"…‥お布団から出られない朝もいってらっしゃい、と頑張って言ってくれたよね。そういうとこだと思うよ」という言葉が思わず出たそうだ。
自分らしさは大切な価値である一方で、自分を苦しめる原因にもなる。なぜなら、本当の自分らしさを見つめたり表現したりするのが難しいからだ。
阿弥陀仏は「きわめて深く重い罪悪をそなえた衆生も(中略)お護りくださる」
(『顕浄土真実数行証文類(現代語版)』一六一貫)。
「良い点」によって私が評価されて救われるなら、面接試験と同様に「良い点」を仏さまに見てもらおうとするだろう。しかし「自分らしさ」とは、善悪を含むさまざまな尺度を超えたものであり、けっして善良さだけのことではない。ましてや強い部分のことでもない。目立っている特徴や秀でた能力でもない。劣っていると思っている部分、嫌だと感じている弱き、考えたくもない特徴、そういうことの全体が「自分らしさ」だ。しかしダメと思っていることも、.人間の尺度の中でそうなだけで、弱いところ、劣っていると思っている部分が、時にはキラキラ輝く。そんな本当の自分らしさに目を向けられるのは、すべてをそのまま大切にしてくれる温もりがあるからだ。自分らしさにとって大事なのは、矛盾するようだが、誰かの温もりなのだ。だからこそ「決して捨てない」というお念仏の温もりは、本当の自分らしさを見出すまなざしを私たちに与えてくれる。お念仏によって「私」が私になっていく。