法話5
「やさしい法話A」
願わくは花の下にで春死なん そのきさらぎのもち月のころ
人間の死亡率が百パーセントであることはだれもが知っているわけですが、それでもわたくしたちが安心して毎日を生きていかれるのは、「その日」がいつ来るかわかっていないからなのです。
それでも、どうしても死ななければならないのだ、と気づいた時、せめてこの歌にありますように、暖かくなった春の如月(三月か四月)の、しかも満月の下で死にたいものだ、と願ったのでしょう。
しかしながら、生き続けることができるからこそ春や満月が有り難いのであって、いざ死ななければならない、ということになった場合、果たしてこんな悠長なことを言っていられるでしょうか。大切なのは、死に際の環境ではありません。
「阿弥陀経』の中に、あの有名な「臨命終時」(命が終わる時に臨んで)という言葉が出てきますが、その瞬間に、阿弥陀様が、観音・勢至の両普薩をはじめとして、多くの聖者の方々を引率してご来迎下さる、という強い信仰をもつことができるのなら、その人の心は平静でいられるのではないでしょうか。
もっとも、宗祖親鸞聖人でさえ、
「いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと」(註釈版聖典八二七/」
と告白しておられるのですから、いくらお浄土へ行けるからといっても、なかなかそのような安心立命の境地を得ることは困難でありましょう。
少なくとも、平生の一日一日の中で、心から「おかげさま」と言えるような暮らし方をしてゆくことの方が、死に際の環境を願うよりもはるかに重要なことだと思います。