法話8

「心に響くことば」C

先日、救急車で運ばれた経験のあるお婆ちゃんが九十七歳でご往生された。
臨終勤行に行くと、寺参りのたびに運転役をされていた息子さんが、最期のお姿について教えてくださった。
亡くなる前は、ご飯が食べられんようになってな。
「母ちゃん、ご飯食べなよ。そしたら元気になる。もうちょっと長生きできるで」
と声をかけたら、
「大丈夫。娘に会いにいくだけじゃ」
と言うて亡くなったんじゃ。
お婆ちゃんの娘さんがご往生されてから、熱心に法座にお参りされるようになった。寺参りはかれこれ二十年になろうか。毎月のようにお参りになられたので、今でも、いつもの場所に面影が感じられる。
毎月の法座では、仏法が説かれる。教えを説くための比喩とか、エピソードとかは違うが、説かれる内容そのものは変わることがない。阿弥陀さまという仏さまがいらして、全てのものを救おうという願いを立てて修行された。その救いがお念仏として届いている。
その念仏の由来を聞き、その救いに身をまかせ喜ばせていただき、やがては懐かしい方々のいる仏の国に生まれ、仏とならせていただく。仏となった暁には、濁世に生きるものたちを救うお手伝いをさせていただく。
繰り返し、繰り返し、この阿弥陀さまの救いを聞くのが聞法だ。
「またお風呂? なんで、またお風呂に入るの?お風呂があったかいのはわかってるでしょ」
こんなことを言う人はいない。逆だからだ。お風呂があったかいのを知っているから、お風呂に入るのだ。聞法もこれに似ている。
お寺へお参りして仏法を聞けば、仏さまのあったかさに包まれるのがわかっている。だから、また本堂へお参りして、いつもと同じように教えを聞くのだ。
「以前、母ちゃんに〃そんなにお参り行かんでも、仏さんは許してくれるわ〃と言ったら、ギロッとにらまれたんよ。来月の法座からは、私が行きますわ」
と息子さんがおっしゃった。お母さんが仏となって、もうはたらかれているようだ。