法話9
「やさしい法話2」
明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは
西洋の諺の一つに、
〃今日出来ることを明日までのばすな〃
というものがありますが、考えてみますと、わたしたち人間は、つい「明日も明後日も必ずやってくる」と何となく信じているのですが、老少不定の身であってみれば、だれにとっても、「必ず明日が来る」という保証はどこにもないのです。
たしかに、「明日が来る」と信じているからこそ、今日を安心して生きていかれるのも事実ですし、「ひょっとしたら今日が自分にとっての最後の一日かもしれない」などと考えて生きていては、わたしなどは、時計が進むことばかり気になって、落ち着いていられないかもしれませんが、それにしても、「たとえ今日がその最後の一日であったとしても、自分は決して後悔しない」と言えるような生き方をすることは大切なことでしょう。
人間の一生というのは、一日一日の積み重ねでしょうから、「明日は今日よりはよくなるかもしれない」と考えるのではなくして、「今日こそを一生懸命に生きよう」とすることこそが重要なのです。
もっとも、来世に極楽浄土に往生できる、と信ずることによって、今世を意味あるものとして過ごせるように、明日がよりよい日になってくれるように、という期待が、今日を意味ある一日にしてくれるのかもしれませんが、それでもやはり、生きている現実の今日一日を大切にしない限り、よりよい明日を期待することも不可能なのではないでしょうか。
親鸞聖人が仏門に入られた時につぶやいたといわれるこの和歌の意味を、わたしたち一人ひとりが、もう一度じっくりと味わってみた時に、本当の人生の意義がわかってくるのではないかと考えられます。