法話1
「やさしい法話3」
新しい年の幕あけです。新しい年のはじめは、私たちになにか希望らしさものを与えてくれます。
今年はどんな年になるか予測がつきませんが、平穏であってほしいという素朴な願いの中で正月を迎えます。私たちは人間としてさまざまな願いを持って生きています。このように生きたい。このように死にたい。こんなことは起こってほしくない。こんなことがあってほしい。
人間は願いを持つ存在です。願いの連続の中であくせくとして生きている、といってもよいのかもしれません。
しかし、私たちが生きる現実は、その願いをみごとなまでに打ち崩してしまいます。そこから、さまざまな苦しみ、悩みがうまれます。私たちの苦しみとは、私の思いが通らなかった時、あるいは計算通りにいかなくなった時に生じます。
私たちの周囲には、現在、六百三十もの宗教があります。宗教は人間の苦しみの数だけある、といってもよいかと思われるほどです。苦しみと悩みの解決のために人間は宗教を求め、幸せを得る道具としてきました。しかし、それでも思い通りにいかない時、人間は深い闇へと落ち込んでしまいます。
仏法は、目さきの幸せと、私の願いをかなえてくれる道具ではありませんでした。私の願いの中味と、幸せを求める心の底にある利己的な心(自分さえよければ)を照らしだすものです。その時私は、自分の思いを通すことが幸せになることであると考えていたことの誤りを自覚します。
真実の利益とは、自分の願いを満たすことではなく、その心の底を知らせることによって、新たな生き方、豊かな人生をもたらすことであると、親鸞聖人は説かれました。