法話11
「やさしい法話3」
自分自身がさびついていれば、他の光や、輝きを感ずることはできません。
雑草という言葉があります。しかし、雑草というものはありません。どんなに弱々しく、人知らず咲いている草木にも、それぞれ名まえがあります。
人に注目され、もてはやされる高価な草木だけが、価値あるものではありません。それは、私たちが、そう思っているだけです。
人間のおもわくや、あてごとに関係せず、草木は生きつづけています。「いのち」というものは、そういうものだと思います。これは値うちがあり、あれは価値がない、というのは、人間のおごりではないでしょうか。
樹齢何百年という大木の根もとに、ひっそりと生きている草木は、大木に劣等感をもっているでしょうか。ひくつになって、身をちぢめているでしょうか。そんなことは、決してありません。
「あいつは仕事ができる、優秀なやつだ」「あいつはタメだ」といつも、こころの中で値ぶみをしている私たちです。「長男はいいんですが、次男はどうも……」。こんなことをよく耳にします。しかし、それは、結局私たち自身の、心の貧しさそのもののあらわれです。
そのような心をよりどころとして生きているのが私たち人間です。親鸞聖人は、そのような人間を「凡夫」といいあてました。
「心の師となるとも心を師とせざれ」という言葉があります。貧しい私の心を師とするのではなく、心の師としての真実なる教えを聞きひらくことによって、私の獲得をはかる。信心の行者とは、そのような人をいうのでしょう。