法話12

「心に響くことば」

あのねママ

ボクどうして生まれてきたのかしってる?

ボクねママにあいたくて.

うまれてきたんだよ

一九八二年、当時三歳だった田中大輔くんが語ったことばを、お母さんが書き留めて、詩集として発表されました。後にメロディがついて、歌にもなりました。

この時代、この境遇、この親のもとに生まれてくるのが「たまたま」でしかないのなら、そこにはアタリ・ハズレがあるのかもしれません。

でも、大輔くんにとっては、今、ここで、ママの子どもとして生まれてきた理由は、「ママにあいたかったから」だったのです。

「たまたまこの親にあたってしまった」というのは、自分に与えられた境遇を他者の責任だと見ていくことです。親は「自分の願い」をかなえるための存在であり、そうならなかったときは、「お前のせいだ」と不平・不満をぶつける対象でしかありません。

でも、「ママにあいたくてうまれてきたんだよ」といただく世界は、自分にかけられた「親の願い」にであい、そのであいが私にとって必然であったとよろこぶことができる生き方なのでしょう。

親鸞聖人は、『教行信証』の冒頭に、

「たまたま思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ」

と仰せになりました。

自分が積み上げたものを頼りにして、思い通りにならないありようを嘆くしかない私たちに、阿弥陀さまから真実の行信を「南無阿弥陀仏」ひとつに込めて、私に回し向けてくだきっています。

阿弥陀さまの願いに出遇うたのは、私の側からすると「たまたま」でしかないけれども、阿弥陀さまの願いからすれば、それは「必然」でしかないのです。

親鸞聖人は、その願いが込められた「南無阿弥陀仏」に出遇われて、「私はあなたの願いに出遇うために生きてきました。そのことをよろこぼずにはおれません」と仰せになりました。

阿弥陀さまの願いに出遇うことで、お念仏申す人生へと決定されたのが、親鷲聖人でありました。

さて、私はどんな願いに遇い、どんな生き方をよろこんでいるのでしょうか。