法話13

「やさしい法話B」

私たちのまわりには多くの苦しみがみちあふれています。ある青年が「楽しみはあるが、喜びがない」と言ったそうです。
私の内からの喜びにであうことがない、というのでしょう。友達と語り合い、遊ぶ、どれひとつをとっても、楽しくないものはありません。
しかし、そのあとにやってくる、なんともいえないむなしさ。なんとなく淋しいこころ。みな、私たちが、等しくかかえているこころです。
若い時には若い者なりの楽しみがあり、悲しみもあります。そして、年老いた者には、それなりの楽しみも、また悲しみもあります。
年齢に応じて、苦しみと、悲しみの量がかわります。苦しいことが次第に少なくなり、悲しいことが多くなる、それが、私は年をとることだと思っています。
そのあたりの現実が、「もっと若かったならなあ」「あの時はよかったなあ」という思いをもたせるのです。
しかし、どうでしょうか。本当にあの時はよかったのでしょうが。楽しいことばかりだったのでしょうか。決して、そうではないように私には思われます。
過ぎ去った過去は素晴しく、今は苦しい、というおもわくの中で生きているかぎり、いつになっても、「これでよがった」という思いの中で生きることは、むずかしいと言わねばなりません。
楽しいことも、悲しいことも、ともに私の人生の一コマです。かけがえのない人生の中での出来事です。
お盆になりました。
仏道を歩みながらなき人にであい、お念仏を申しつつ、なき人にであいを果たすお盆でありたいものです。