法話15
「やさしい法話3」
八月になると、新聞・テレビはいっせいに戦争に関する報道をいたします。しかし、十五日をすぎるとパタツとそれはかげをひそめます。
私はそれを「八月十五日用のジャーナリズム」と呼んでいます。戦争というものの悲さんさが言われるわりには、持続して問われることがないようです。いのちにかかわる問題は、私たちが生きているかぎり、問いかけていかなければならない問題だと思います。
私たちの教団が展開している差別の解放、平和の実現という問題も、その根底には「いのち」へのまなざしがあるからです。
どのようをいのちも、ひとつひとつが尊いものです。若いいのちが、老いた者のいのちより尊い、ということはありません。
罪をおかしで裁かれた者のいのちが、そうでない私のいのちより劣っている、ということはありません。みな、等しく、たまわったいのちです。
敗戦後四十数年の、暑い夏です。尊い、無数のいのちが散り、そのいのちの犠牲の上に私たちがあることを忘れてはならないと思います。決して、平和であるとは思えない今の世ですが、尊い犠牲の上に生きることが悲しみにならないような生き方は、問われなくてほならないでしょう。
そこに「生くる悲しさ」という言葉の重みがあります。八月十五日は、その昔、親鸞聖人が「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれかし」と言われたこころをあらためてとり戻し、念仏申しながら平和への誓いをあらたにしたいものです。
人間の罪業として、最悪なるものが戦争です。国家の最大の非行が戦争です。念仏のこころに生きる私たちはこのことをみとどけ、誤りなき念仏生活をおくりたいと思います。