法話19![]()
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「やさしい法話3」
十月はあちこちで体育大会がおこなわれます。仕事の移動で車を走らせていると、小学校で、中学校で、ときには会社がもっている運動場で体育大会が開かれています。
体育大会というよりも、私は運動会と呼ぶ方がすきです。青空のもと、思いきり走り、綱を引き、ボールを運ぶその姿をみると、今でも胸が高なるのをおぼえます。私が小学校の頃、徒競走(かけっこ)で、どうしてもかなわない友人がいました。
私が賞品のノートを一冊もらうと、彼はいつも二冊でした。そんな彼を、私は尊敬のまなざしでみていました。しかし、この頃は、タイムの同じような者を集めて走らせ、賞品も一切たさずに、リボンで順位を示しているようです。
つまり、人間を平等に扱うというところから、このようになったと聞いています。私は、足の速いその人が一位になって、賞品をもらうその姿を、うらやましいと思いつつ、すごいな と思ったものです。
人間を平等に扱うということは、もっとも大切なことです。ひとつのいのちはそれぞれに光を放っているものです。しかし、それは、徒競走の時に、生徒同士の差をつけない、ということだけに終わってはならないはずです。
もっと大事なことは、人間どうしが、大切にし合い、敬い合えるいのちを育てることではないでしょうか。目さきの平等主義だけが先行すると、本質がみえなくなります。人を教え、育てることの本質。それは「いのち」をいつくしみ、共にいのちの尊さにめざめを持つことです。
お念仏は私のいのちを育てあげ、すべてのいのちをいつくしむ世界を教えてくれます。「一切衆生はつながり合っている」とは、親鸞聖人の言葉でした。
一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり 親鸞聖人