法話21![]()
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「やさしい法話3」
私たち浄土真宗の者にとって、報恩講のご法要は、もっとも大切な法要です。
親鸞聖人がご往生されたのは、新暦一二六三年一月十六日のことでした(旧暦では一二六二年十一月二十八日)。
ひ孫の覚如上人は、
「口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらはさず、もっぱら称名たゆることなし」(註釈版聖典一〇五九n)
と記しました。九十年の人生を終えて、称名(念仏)とともに浄土にかえられたすがたが、このように示されています。
「人は死ねばゴミになる」と言われた方がいます。現代人の中では、共感する方々が多いと思います。「だから生きていることだけが大切さ」「したいことをしなければ」という声も聞こえてきます。
親鸞聖人は「私が死んだら、賀茂川に流して魚のえさにでもしてほしい」と言われたと、覚如上人は記しています。この言葉は「ゴミになる」という意味とはちがうと思います。
アミダ如来の本願によって、真実の仏国土に往生し、仏に成る「私」です。この身はすぐに朽ちはててしまいます。しかしゴミではなく、「仏に成る」べく私を育て、はぐくんでくれた「身」であると、私は考えています。
「賀茂川に入れて」というお言葉も、やがて朽ちはてていくこの身(体)だけを、もっとも大切なものとして扱っていく人間のあやまりを言いあてたお言葉のように私には思われます。
ご遺体への必要以上のこだわりは、その人の「死」を無意味なものにしてしまいがちです。「ゴミになる」という言葉も、そのあたりのことに対する皮肉をこめたものであったのでしょうか。ゴミでなく、仏に成るこの「身」とうけとめたいものです。報恩講法要は、一年の仏法聴聞と私の生き方を静かにかえりみる時でもあります。