法話4

「心に響くことば」

ふだんハンドルを握っている時は、穏やかな気特で、安全運転を心がけている私です。譲り合いの気持ちを大切にしながらの運転を心がけているつもりです。

ところが、ちょっとしたきっかけで、「バカヤロウ! ぶつかったらどうする! 単独事故で勝手に地獄へ落ちろ!」という心が湧き上がってきます。でも、相手にも言い分があるかもしれません。もっとゆっくり走っていてくれたら、あなたが急ブレーキをかけずにすんだのに、どうしてそんなにスピードを出すんだ、と。

「私は間違っていない」「相手が悪い」とお互いが自分の「正義」を握りしめ、相手に振りかざしていく。家族でも、友人でも、地域でも、国家でも、「争い」というのは、「正義と悪」がぶつかるのではなく、「正義と正義」がぶつかり合っているのではないでしょうか。そうやって、お互いを傷つけ合い、いのちを奪い合う中に「地獄」が生まれてしまう。

私と無関係なところに「地獄」があるのではなく、正義を握りしめた私自身が「地獄を作り出している」のでしょう。

「いずれの修行にもたえられない愚悪の身には、しょせん、地獄こそ定められた住み家であるといわねばなりますまい」(『歎異抄』第2条意訳)

 親鸞聖人は、師匠の法然聖人により、南無阿弥陀仏の他力念仏のみ教えに出適えていたからこそ、地獄行きまちがいなしのいのちを抱えた、我が身のありのままを見つめていかれました。

 そういう我が身だからこそ、浄土で仏に成らせるというのが阿弥陀さまの願いです。そしてその願いをこの私のために、南無阿弥陀仏の名号と仕上げてくだきったのだといただいたのです。

阿弥陀さまのお救いのはたらきは、地獄行きの生き方をしている私に、南無阿弥陀仏のお名号となって回し向けられ、私のいのちに響き渡っているのです。