法話5
「やさしい法話3」
三月という言葉は、私たちになにか、あたたかさを与えてくれます。
弥生という言葉の中に、いのちあるものが、芽ぶいてくるというひびさがあります。
春のお彼岸は、そういう意味で、希望らしさものを人に持たせてくれるようです。お彼岸になると、多くの人は、手にお花と線香をもって墓参りに行きます。それは、古来の美しい習慣になっているといってもよいかと思われます。
私たちの「いのち」は、多くの、無限といってもよいはどの「いのち」によって恵まれています。つまり「いのち」の流れの中に「私」が存在しています。
そのことを見失ったとき、私たちは「いのち」を自分だけのもの、として私物化してしまいます。そこからは、どうしてもかまわない私の「いのち」という立場がうまれてきます。
私の「いのち」は、私のものです。しかし、「私だけのもの」ではないはずです。いのちの流れの中にある「私」のいのちである、という一点を見失うとき、人は傲慢のとりこになってしまいます。
そこからは、いのちの尊さを互いに認め合い、かけがえのない「いのち」を燃焼させる、といった世界は開かれてはこないでしょう。
あるお同行が、お彼岸の法座に参った若い人に、「よくきましたね。お墓の石の下にお母さんはおられませんからね。仏法を聞くことがお彼岸のおつとめですよ」と言っておられました。私は嬉しくなりました。この、サラッとした言葉の中に、仏法に生きている人の素晴しさがあるように思われるのです。