法話8


「心に響くことば」より

突然、趣味の自転車で大きな交通事故に遭い、病院の集中冶寮室に担ぎ込まれてしまったのです。病室でモニターに囲まれながら、一週間後の大きな大会も、順風満帆な日常も、握りしめていた私の手から容赦なくもぎ取られていくことを実感していました。
仕事も、健康も、そしていのちさえも、当たり前だと思い込み自分のモノであると掴んでいた私。でも、私が掴んでいたものは、何一つ当たり前ではなく、ひとたび緑に触れれば、どんなに私が掴もうとしても、私の手からもぎ取られてしまう。それが、私のありのままであったのです。
でも、「まさか、こんなはずでは」というのは私の視点、私の考えであって、阿弥陀さまは、そのような私であることをすでに見通しておられました。
「あなたを救う仏に、私が成る。あなたのいのちのすべてを、この私のし、のろ(こいつも如来のいのちか通し、続けている鼠が引き受ける」
と、阿弥陀さまが願いを起こされ、そのはたらさを「南無阿弥陀仏」というお念仏に仕上げてくださったのです。
私がお願いしたから救いましょう、おすがりしたから助けましょう、と仰せになるのではありません。それだったらもう私には間に合いませんから、私は救いから漏れてしまうことになります。
私がお願いするより先に、気付くよりもずっと以前に、阿弥陀さまの方から私に寄り添い、お慈悲のぬくもりが届けられていたのです。
この私のいのちに、阿弥陀さまのいのちがすでに通い続け、届いていました。南無阿弥陀仏とお念仏申すなかで、そのありがたさをしみじみと感じます。