法話9
「やさしい法話3」より
五月二十一日は私たち浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の誕生された日です。
この日は、特に、親鸞聖人のお誕生の意義について想いをこらす一日でありたいと思います。京都の西本願寺でも、東京の築地本願寺でも、それは盛大にお祝いの行事がおこなわれます。
それまでの仏教というものは、きびしい戒律を守り、苦しい修行のはてに「仏」のさとりを得る、というものでした。したがって、それは、ごく一部のかぎられた人、いわば仏教エリートにしてはじめて可能な道でありました。
親鸞聖人は、そのような仏教に疑問を持ちました。さまざまな苦悩、生きる上での多くの苦しみ、悩みをかかえながら、この土をはいつくばるようにして生きている人々に「救い」がなくて、一体なんのための仏教なのだろうか。仏教は「人間」(苦)のために世尊によって説かれた教えであり、仏教のために人間があるのではない。親鸞聖人の疑問は深いものでした。
恩師法然聖人とのであいは、そのような問いの正しさを確認するであいでもありました。
この土を苦悩しながら生きる「私」のために「救い」が誓われ、救いの完成を果たされたのが「アミダ仏」であったのです。私たちはこの、アミダ如来の願いを、喚びかけを聞くのです。「そんな人生でだいじょうぶかい」「苦しみの根もとを解決しょう」という喚びかけを聞くのです。
これを聴聞といいます。聞くことによって新たな人生が開かれる教え、それを親驚聖人は「浄土真宗」と名づけられました。