法話10


「心に響くことば」

私たちは理解して、行動して、絹栗を得るというパターンに慣れているし、そうでないと安心できない。信心を得るということもその図式で考えてしまう。

しかし、それは仏さまのはたらきをあてにするのではなく「私の積み上げた心」をあてにしているだけである。

煩悩の沼にどっぷりと浸かり抜け出せなくなった私をどのように救うか。

阿弥陀さまは思案に思案を重ね四十八の願を建て、その一願、一願を成就されていった。そして、さまざまな方法の中から、浄土に生まれ仏に成ることに必要な全ての要素が凝縮された名号を完成し、私に施してくだきったのだ。

私はそのお心をどう受けとっていくべきだろうか。

ご年配の門徒さんが「どうしても捨てられないものがあります」とポロポロのノートを見せてくれたことがあった。シゲちゃん一歳……歩き始めた。シゲちゃん七歳大きなランドセル……その方の成長を記録した日記だった。

私からすれば、ただの大学ノート。しかし、その方からすれば、母による「慈悲の証明書」なのだ。

お経もそうではないか。「とにかくお慈悲の力はぬくいでなあ」という妙好人の足利源左さんの言葉のように、そこに温度(ぬくもり)を感じなければ、寓話の記された巻物にすぎない。

阿弥陀さまが衆生、有情、いや「私」のことを思って記した、真実の親による「慈悲の証明書」と味わうなら、そこに温度が生まれてくる。

聴聞とは、私が阿弥陀さまを信じるために努力するのではなく、この救われがたい身をどのように救うかとご苦労された阿弥陀さまのお話を、疑いの霧が晴れるまで聞き続けることではないだろうか。