法話12


「心に響くことば」

昨年の夏、臨終勤行の時、 八十八歳で亡くなった女性のご遺体の前に、同居していた息子さんが座っていた。

お勤めした後、息子さんに「お寂しくなりました」と言葉をかけると、ハッとした様子で話し始めた。

「住職……母は本当に仏さまを大切にしていました。朝夕、お仏飯をお供えして、お経をお勤めするのが日課でした。お念仏も称えていました。いつも「ありがとう」と感謝の言葉を口にしていました」

ここまで話した後、顔色が曇り、こう続けた。

「その母が晩年、癌になってからは、お経をお勤めすることはなくなり、お仏壇が荒れていきました。『ありがとう』という口癖は『死にたくない』に代わりました。私はそれが残念でなりません。そんな母は、救われたのでしょうか?

問いの重さに答えに詰まり、少し時間をもらうことにした。

脳梗塞になって、意識がないまま人生を終えていくかもしれない。交通事故で思考することも許されないまま娑婆の縁が尽きるかもしれない。その時、お念仏を称えることができるだろうか。仏さまのことを想うことができるだろうか。お聖教をめくりながら改めて思う。

「即得往生住不退転」

「一念発起入正定之聚」(『御文章土より)

私が確かだから救われていく教えではない。

阿弥陀さまの「必ず救う」という呼び声を聞き入れたら、そこで救いは成立し、いつどこでどのような最期をむかえても救われていく教えではないか。私が阿弥陀さまを忘れても、阿弥陀さまは私を忘れない。

確かなのは阿弥陀さま、残念になっていく私を、残念なまま浄土に生まれさせ仏にしてくださる。

体の状態が変わると心も変わり行動も変わる。状況によって、大切にしていたものの価値が揺らぐ。

こんな私が行に励んでも、きっと不純物が混ざったものでしかないだろう。終活程度の始末はつけることができても、この身体、この心の始末は、自分ではできない。

そういう意味で、私とは自分で自分の始末をできないものの別名なのかもしれない。

人間とは自分で自分の始末を仕切れぬ者の別名である

まあ、これもお育てかな。

何をしでかすかわからない私が、何をしでかすかわからない人生をトボトボと歩いている。あたたかい慈悲に包まれながら、今日も。