法話13![]()
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「やさしい法話4」
「弥陀をたのむ」とは、阿弥陀仏を信ずることであって、『御文革(御文)』をよむと、しばしば「たすけたまえとたのむ」というように用いられています。つまり阿弥陀仏のおたすけ(救済)を信ずることであって、信ずるとは、すべてを捨ててまかせきることです。この場合、すべてを捨てるとは、自己のいかなる行為も知識も、さらに自己の信仰すらも捨てることをさしています。
「身をまるめる」とは、身をまかせるということであって、自己のすべてを投げ出してまかせきるという意味です。したがって、信ずることの内容を示しています。
一遍上人の語録に次のことばが出ています。
「念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤の高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願う心をもずて、また諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤かない候へ。かように打ちあげ打ちあげとなうれば、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角の道理もなし」
このことばは「捨て聖」といわれた一遍上人の面目を生き生きと伝えていますが上人の念仏には求めるものは何もなく、またおそれるものも何もなかったのです。そこに信ずるということの真髄があります。
詩人・坂村真民さんは、このことばに深く感動され、信仰の極地をみています。弥陀を信ずるとは、南無阿称陀仏に自己のすべてをまかせきっていることをいうのです。そこには自己のはからいは無用なのです一切を捨てて弥陀、つまり南無阿弥陀仏にまかせきる、それが信であり、念仏の行にほかなりません。