法話15

「やさしい法話4」

浄土真宗は「聞の宗教」であるといえます。「仏法は聴聞にきはまることなり」(同、一九三註釈版聖典一二九二で)とも強調されるように、聞法あるいは聴聞をもっとも大切にしているのです。聞くということは大変むつかしく、聞く姿勢が問題なのです。自分中心に都合のよいように聞いていても、聞いたことにはなりません。私たちはその点で教えを聞く耳をもっていないといわざるをえません。
仏法とは、私たちが求めるもっとも大切なもので、その中心は「信をとる」ことにあります。聞法によるほか、信をとる道はありません。だからこそ、聞法(教えを聞くこと)を怠ってほならないのです。たとえ私利私欲に溺れて聞きたくなくても、仏法は大切に求めなくてはなりません。聞きたくない仏法であっても、仏法を聞くことに努めるなら、いつしか仏法に自然に耳が傾くようになり、ついには「一生聞いても聞きあかぬ」というようになります。聞きたくない仏法が聞きたくなるのです。そうしてそこに私たちの力を超えた不思議のはたらさがあることに気づかされるのです。
このはかり知れない大きな力こそがみ仏の願いであり大慈悲心である、と説かれているのです。
聞きたくないものが聞こえるようになるのは、私自身の力ではありません。聞かずにおれなくなるまで、つねにみ仏が私に喚びかけてくださるからであります。