法話18![]()
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「心に響く言葉」
悲しみを避けて生きていきたい。これは人間の痛切な願いではをいかと思う。
しかし、悲しみの矢を避け続けることはできない。
二〇二(平成二十三)年一月四日親友が二十八歳の若さで亡くなった。本人は言葉を発することができる状態ではないので無言のままだった。私も、上手く言葉を妨げない。最後まで生きる為に戦おうとしていた人間に、
「お浄土で会おう」とこちらからは言えない。
「がんばってくれ。生きてくれ」過酷すぎる。
「がんばったな」どれだけ敏慢を言葉だろう。
「大丈夫」何が?
言葉で伝えられることなんて、ほとんどが薄っぺらなことでしかないのかもれない。確実に言えることは、あの日自分の人生において大切なものが一つ無くなった。そしてそれはもう二度と戻ってこない。それだけである。
彼は亡くなる前、
「浄土に生まれたいなんて思わない。生への執着が増すばかり。最後まで闘病する」
と語っていた。
人は死ぬ間際、三愛に苦しむという。
境界愛(妻子・親族・家屋・財産等への執着)
自体愛(自らの身命に対する執着)
当生愛(命終の後に、自らの生がどうなるかわからない不安)
「浄土で待っていてくれ。俺もそのうち行くからな」
「浄土から見守っていてくれ」
と、浄土での再会を最後の言葉にしたかったのに、何故かその言葉がスッと出てこなかった。「無常」と口では言いながらも、私は当分生きるであろうという打算や、病苦を理解できない健康な身体。今、命を終えようとする人の気持ちがわからない。いろいろな要因がブレーキをかけたのだろう。
言い方を変えれば十年以上、お育てをうけているともいえる。今なら「浄土で会おう」と言えるのかな。しかし、この言葉を言う・言わないは、おそらくたいした問題ではないのだろう。綺麗な別れは、こちらの自己満足でしかない。
浄土への正因は、阿弥陀さまを疑うことなくうけいれる信心なので、死にざまを問うことはない。
彼も、阿弥陀さまに抱かれ浄土に参り、きっと今も仏さまになって照覧してくれているのだろう。私に「臨終の在り方」という宿題を残して……。
それは悲しい愛別の縁ではあったが、いのちへの深いめざめとなる大切な機縁となった。