法話2

「心に響くことば」

はかりしれない過去から、ピッシリと煩悩の根を下ろす衆生。いや……私。

いつまでたっても迷いの世界から出るべき緑のない私と深く信じ、阿弥陀さまの本願はそういう私を救いとってくださることに少しもまちがいがないと深く信じる。これが並起することを信心という。

「救われない私がいて、遠いところの阿弥陀さまがその私を救う」ではなく、「救われないと自覚したところに、既に阿弥陀さまの願いが届いていた」と気づくことなのだろう。

後輩の継職法要での一コマ。継職法要とは、今まで続いてきた法灯を次世代へと引き継ぐ、お寺にとっては一世一代の法要である。当然、どの寺院も気張って最大限の荘厳をして、この喜ばしい法縁を彩る。

出勤前の僧侶たちが本堂の横にある廊下に待機していた。待機している場所から内陣の様子が目に映る。内陣の荘厳は見事なものだった。

お荘厳の華美に教われるより、お念仏が一人寂しい時もご一緒くださる阿弥陀さま。やはり一番ありがたいのはお念仏だ。どんな時もこのことを忘れてはいけなかった。一人、感慨深い気持ちになった。

年配のご住職は続けた。

「でも、一番ありがたいのは・…・あの椅子だ」

長時間の法要に配慮して、余間にはたくさんの椅子が並んでいた。

「え、椅子?

しかし、この言葉は心に杭となってずっとひっかかっている。

最近になってこの言葉を思い返すと、長い法要で正座をする時に「立てなかったら恥ずかしい」だの「膝の痛みに耐えられるのか」だの……その時間においては、阿弥陀さまに救われることのありがたさよりも、己の小さなプライドや自分が楽になることばかり考えてしまうのではないか。

この言葉がひっかかっているのは、心の奥底で私も「椅子がありがたい」と思っていたが、周りの目を気にして共感できなかっただけなのかもしれない。誰しも心のずっと奥の方では結局、自分のことしか考えていない。

阿弥陀さまの智慧のはたらきにより己の姿を照らされたら、そこにあらわれるのは、どこまでも救われがたい罪悪深重の凡夫の姿である。そんな私に、休むことなく光は届き続けているのだ。かたじけないというか、恥ずかしいというか・まあ、そう思えるのは、光に照らされている証拠なのかもしれない。

教えに出遇うということは自分が尊くなるのではなく、「教われ難い私が、救われ難い身のまま救われている」という

ことに気付くことである。