法話3![]()
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「やさしい法話4」
私たちの世の中をみますと、「自分が努力した」とか、「私が働いた」とか、「おれが助けたんだ」とか、とかく自己を前面におし出して、自己中心の言動をしていることがいかに多いことでしょう。
無我ということは、この「私」「自分」「おれ」を捨てることです。努力をしていても、「自分が」という思いを起こしてはならないといましめられるのです。この「自分が」という思いは、努力しているのは自分だけだ、という思いあがりとなっていきます。
「自分が」「私が」「おれが」という思いは、我執(自己中心の執らわれ)というものですが、この我執を捨てよ、と仏教では教えています。なぜなら、自分中心に考え行動するなら、絶対に人をうけいれることはできず、対立し争うほかはなく、それでは真の人間の姿とはいえないからです。また、努力していても、「自分が」という思いがあるとき、その努力をふりかざして、人を見下したり、非難したり、あるいは自慢したりするのであって、せっかくの努力もかえってその人を損なうことになるからです。
これに対して、努力していでも自分は努力しているのだという思いもなく、ひたすら努力している人をみるとき、その努力はどんなに私たちの心をひきつけることでしょう。「わたしが努力した」といわれると、私たちはすぐ「自分だって努力しているんだ」と反発したくなります。努力しながらも、少しもそれを自分の努力としない人の姿にふれると、私たちはその人の努力を心から讃えたくなるのです。
無我になるとは、自己を捨てることをいいますが、自己を捨てるとは、自分を無にし、「自分が」という思いを捨てることです。この自分を捨てた行為ほど美しいものはなく、人の心を打つものはないのです。