法話5![]()
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「やさしい法話4
われぽかりと思ふことはあるまじく候ふ。(蓮如上人御、一代記聞書)
「わればかりと思うこと」とは、自己本位の思いを意味しています。えてして私たちは自分中心に考え、行動しがちであって、とくに近ごろは、その傾向が著しくなっているようです。
右の文の前に、「わればかりと思ひ、独覚心なること、あさましきことなり」ということばがあります。独覚とは元来、師につかず独りで修行して悟りをひらいた聖者のことですが、ここでは自分だけの悟りに溝足して、他の人びとを救おうとしない人のことをさしています。つまり自己の悟りのことだけを考えている人のことです。
「わればかり」という心は、悟りをめざす道においても「あさましきこと」である、とつよくいましめられるのです。仏教では何よりも慈悲の心を中心にしていますが、慈悲には「わればかりと思う」心はありません。
ところが、現実には、私たちは慈悲の心をもって生きているとはいえません。むしろ自分だけのことを考え、自分のことを大事に思い、自分中心に生活をしている私たちです。このような生き方が「わればかり」という思いを根底にしていることはいうまでもありません。
人に尽くすには自分を捨てなくてはなりませんが、この自分を捨てるということは、「わればかり」という思いを徹底して捨てることにほかなりません。しかし、これはいうことはできても、現実にはほとんど不可能といってもよいほどむつかしい課題です。
そこでこの課題を解決するうえに大事なことがらとして浮かびあがってくるのが、信ということです。仏教では信は自己本位の祈りではありません。仏の慈悲を知り、「わればかり」という思いが根底から破られる道を開くものが信なのです。なぜならこの信は私たちに恵まれた仏心にほかならないからです。