法話7


「やさしい法話4」

人びとを教え導こうとするとき、みずからに信心の決定がないなら、教化者としては不適格で、とうてい人を教化することはできません。いかに経典を読み語る能力があっても、信心をえていない人の言葉には、人の心を打つものがないからです。
信をとる、信心を決定することは、教化者としての基本であり、本質であって、そこでまず教化者はみずから信を決定することがなくてはならないのです。
「信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからず」
といわれるように、自分は物を持たずに人に物をとらせようとするのと同じく、教化者自身に信心がなくては、いかに信心をとることをすすめても、人は納得しないのであって、これは当然のことです。
法話とか布教で、よくお聖教(仏教聖典) のことばを引用しますが、大切なのは信心があるかないかということであって、もし教化者としての立場にいる人がみずから信心をとっていないとしたら、その人の語るお聖教のことばは、ただ解説にしかすぎず、本末転倒しているといわざるをえません。そこで教化する人白身の開法が大切であって、みずから開法を疎かにしていくら人に開法をすすめても、何にもならないのです。
「尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信を取る」
といわれるように、いかに無知無学で聖教のことばを知らなくても、信をえてよろこぶ人の姿こそ、何よりの教化となることをよくよく考えなくてほならないのです。
仏さまを心から尊び、感謝する心こそ教化の第一の要件であることを、私たちは忘れてはなりません。