新たなる闘争 〜 200ゴール
アズーリ復帰 〜 引退
2002年10月5日 |
レッジーナ VS ブレシア この年移籍した中村俊輔選手と初対戦 2対2の引分け。 バッジョ はPKを 中村選手はフリーキックを決めました |
10月11日 |
国連食糧農業機関 ( F.A.O ) の 親善大使に就任する |
11月1日 |
バッジョ 2冊目の自伝 「 Il Sogno dopo 」 がイタリア発刊される |
12月15日 |
ブレシア VS ペルージャ戦で 現役通算300ゴール達成 !! ( セリエA 187ゴール ) 弟のエディ・バッジョもセリエBのサレルニターナで 通算100ゴールを達成2人で父親の誕生日に 記念のゴールを決める |
2003年2月7日 |
イタリア代表トラパットーニ監督は、再び話題になっていた バッジョのイタリア代表復帰の可能性を再び否定する |
2月18日 |
バッジョ 36歳の誕生日 イタリアの各紙は、バッジョの誕生日を祝う記事を掲載する |
3月11日 |
バッジョは、日本のマスコミがとり沙汰していた J リーグ入りを否定する |
4月25日 |
バッジョ 2冊目の自伝の日本語版 「夢の続き」
が 潮出版社 より発刊される |
5月26日 |
シーズン終了後、アルゼンチンへヴァカンスに出発 |
5月28日 |
ブレシアのマッツォーネ監督が退団 バッジョの去就も注目される |
6月5日 |
ブレシアの新監督に、現役中にブレシアにも所属していた ルイジ・デビアージ氏が就任 |
6月17日 |
バッジョがアルゼンチンより帰国 ブレシアとの契約が後1年残っているので ブレシアでプレーとコメントする |
6月20日 |
バッジョの弟の、エディ・バッジョが結婚 バッジョも当然、出席した |
7月12日 |
マッツォーネ氏は噂されていた、アンコナへの 監督就任を見送る アンコナのライバル・チームの街に住む家族の 安全が心配のため |
7月14日 |
バッジョが、ボローニャで6度目の手術を右膝にする 手術は無事終了し完治まで2ヶ月と報道される |
7月17日 |
7.17 の意義深き佳節に、日本のファンに公式サイトより 手術への激励などに対する御礼のメッセージを贈る その後、東京ヴェルディとの親善試合が決定するが バッジョは手術後のため出場できず 試合も中止になる また、バッジョが今シーズンで引退と報道されるが いつもの事で、真偽はあきらかであった |
8月27日 |
第1回 Golden Foot をジダヌ等を押さえて授賞 ペレ・マラドーナ・プラティニ等の歴史上の スーパースターと共に足型が保存される |
9月19日 |
バッジョの公式HPに日本語バージョンが登場する |
9月28日 |
今シーズンより サンプドリアに移籍した 柳沢敦選手と初対戦 (第4節 サンプドリア VS ブレシア ) 2-1でサンプの勝利。 決勝点は柳沢選手の奪ったPKが起因 |
11月30日 |
対 ウディネーゼ戦の後半15分に練習で痛めた 腰が再び痛み、交代 |
12月20日 |
ウディネーゼ戦後の3試合を欠場し 早めのクリスマス休暇でアルゼンチンへ旅立つ |
12月29日 |
TeleTutto のインタヴューで バッジョが 改めて、今シーズン限りで引退するとコメント イタリアから全世界に報道される インタヴューは、バッジョがアルゼンチンのヴァカンスに 出発する前に収録されたもよう ロベルト・バッジョの 別れの時がやってきたようだ 「そう思っている。それが今の私の考えであり、 最終的な決定になると思う。 よほどの変化があれば別だが、その可能性は極めて低い」 「神のポニーテール」の言葉はサッカー界を大いに揺るがした。 これは、バッジョがバカンスのためにアルゼンチンへと向かう前に ブレッシアの放送局『テレトゥット』の独占インタビューに答えたもので、 イタリアでは29日夜に放送された。 評論家たちは今、イタリアサッカー界で最高の才能を持ったこの 選手の引退を遅らせるため、必死に動こうとしている。 バッジョは今でもボールに対する情熱を失ってはいないとはいえ ますます悪化しつつあるフィジカルコンディションが 彼の引退を決めてしまうことになりそうだ 「私のキャリアには負傷が大きな影響を及ぼしてきた。 ここ数年間はずっと負傷のためバランス良く走ることができなくなっている。 バランスが悪ければそれだけ体に負担がかかり、 この年齢ではその負担と戦うのがますます難しくなっている」 ロビー・バッジョは引退後に何をするのかまだ決めていない。 「まだそれを言うのは早い。 グラウンド上を走れなくなるという考えにまだ頭がなじんでいないんだ。 そのうち何かを見つけるだろう。 私の人生に新たな価値を与えてくれる何かを」 間もなく暮れようとしている2003年に関しては、 一つ心残りな点がある。 「最後にまた背中を痛めてしまったこと。 そしてセリエAでの通算ゴール数が196で 止まってしまっていることだ。 200ゴールを達成して2003年を終えたいと思っていた」 「2003年にはブレシアが3シーズン連続の 残留を達成することができた。 クラブにとっても街にとっても新記録であり、 そのために貢献できたことをうれしく思っている。 今の夢はこのチームで4度目の残留を達成することだ」 2003年はカルロ・マッツォーネ(現ボローニャ監督)が ブレシアから、すなわちバッジョから離れた年でもあった。 「別れはいつでも悲しいものだが、 われわれはプロフェッショナルだ。 数百キロ離れたからといって彼への評価や 親しく思う気持ちが消えてしまうわけではない」 |
2004年 (平成16年) 1月2日 |
中田英寿選手がパルマからボローニャにレンタル移籍 パルマでプレーしつつも、中々試合ニ出場機会の少なかった マッツォーネ監督が強く念願したもよう、背番号は 16 |
1月6日(火) |
新年、再開したゲームで2ゴール、2アシストの大活躍
!! BreciaOggi では、10 の評価を受ける |
1月18日(日) |
対A.Cミラン戦でピルロ選手と接触63分にデルネーロ選手と 交代、負傷退場しその後2試合欠場する |
2月8日(日) |
対レッジーナ戦で先発で復帰 |
2月18日 |
37歳の誕生日を迎える これに前後し、引退についてはかなり迷っていると コメントする。 また、奇しくも中村俊輔選手がこの日 入籍した |
3月14日 |
セリエA 第25節 パルマ VS ブレシア戦で セリエA 200ゴール達成 !! 試合後、200 Grazie と書かれた大きな三色旗を 背負って感謝の意を表す 試合後、改めて今シーズンで引退する可能性が 高い事をコメントする 最終的には、シーズン終了時に決定される |
4月25日 |
1999年3月31日の対ベラルーシ戦以来のイタリア代表に 選出される。 バッジョがセリエA 200ゴールを決めて以後 トラパットーニ監督が、偉大なるチャンピオンに祝意を表す意味で 言及していた事が実現した |
4月28日 |
立宗記念日の意義深き日に 1999年3月31日のベラルーシ戦以来、5年振りの イタリア代表に 10 番で復帰する 親善試合 イタリア VS スペイン 1 - 1 得点は無かったが、88分にミッコリと交代するまで出場 後半からは、3色にイタリア vs スペイン ☆☆☆ スクデット のキップテン・マークを付けて登場する 試合後、心からの感謝と欧州選手権に出場できれば 現役を続け、出来なかった場合は引退するとコメントする |
5月9日 |
2003〜2004シーズン ブレシア・ホーム最終戦の対ラッツィオ戦で 後半43分に、セリエA 205ゴールを決め ホーム最終を勝利で飾り ファンにメッセージの横断幕を贈る Oggi vi applaudo io, grazie di tutto...Roberto Baggio 今日は皆さんに、私が拍手を贈る ありがとう、皆さん。 ロベルト・バッジョ |
5月10日 |
愛息マッティア君が出場する故郷カルドーニョでの 試合にゲスト出演。 「Baggio-Day」 と表され 個人的な授賞式にも望む また、「プレーが続けられるなら命が縮んでもいい」 と内面の葛藤を繰り返している事を吐露した |
5月14日 |
セリエA の最終節を前に「引退する、後戻りはない」 とコメントす・・。 |
5月16日 |
2003〜2004 セリエA 第34節 ミラン vs ブレシア Roberto Baggio 引退す 8万人の大観衆に見守られプレーし後半39分に交代 試合中に会場を後にし観衆に応えた・・ バッジョは、その日のうちにアルゼンチンに 旅立った・・。 |
6月4日 |
アルゼンチンより帰国 ブレシアの日本ツアーへの出場意欲を示す 6月にポルトガルで、ヨーロッパ選手権が開幕したが 10番のトッティがイタリアの開幕戦で唾を吐き 3試合の出場停止となる。イタリアのサポーターからは 「バッジョは、唾を吐かない」との横断幕が 掲げられる。イタリアは結局予選リーグ敗退。 バッジョは、アテネオリンピックのU-23の オーバーエイジ枠に名前が再び上がる |
2005年(平成17年) 2月18日 |
バッジョ 38歳の誕生日を迎える |
3月2日 |
バッジョ に3人目の子供が誕生する レオナルド・バッジョ バッジョが尊敬するレオナルド・ダヴィンチから命名か?? |
9月14日 |
バッジョがF.A.O(国際連合食料農業機関)の親善大使 として婦人と二人の子供とマネージャーの ペトローネ氏と共に来日し 創価学会の会合に参加、人生の師匠である 池田大作名誉会長よりアメリカ創価大学名誉大使の称号を 授与されアンドレィーナ婦人とペトローネ氏にも アメリカ創価大学の称号が授与されました |
9月15日 |
ニッポン放送本社と外国特派員協会でそれぞれ記者会見 バッジョの切手の発売で売上金額をFAOに寄付し FAOの活動と世界の食料事情を訴える また、自身に関しサッカーの世界に何らかの形で 戻る可能性を検討している事を示唆しました 更に、これまでの自分の人生は創価学会の仏法と 池田先生に出会えてからこそ、ここまで来れたと 師匠を宣揚しました。20日に帰国。 |
2006・H18年2月18日 |
39歳の誕生日を迎える。 サッカーゲームのCMに出演する |
2006・H18年7月10日 |
2006W杯 ドイツ大会でイタリアが4度目の優勝。 |
PK戦でフランスを破る。ジダンは頭突きで途中退場しました。 |
イタリア vs フランス 1-1。 PK戦 5-3 監督はM・リッピ |
2006・H18年 |
セリエAのエンポリに移籍した小笠原満男が初ゴール |
2006・H18年 |
イタリアのDF、カンナバーロがバロンドール受賞。バッジョ依頼のイタリア人。 |
2007・H19年2月18日 |
40歳の誕生日を迎える |
2008・H20年2月18日 |
41歳の誕生日を迎える |
2010・H22年夏 |
イタリアサッカー協会のテクニカルディレクターに就任。再びサッカー界に復帰 |
2010・H22年11月14日 |
ノーベル平和賞受賞者世界サミットより「平和サミット賞」を広島にて授与される。 バッジョの世界的な慈善活動を評価して |