キスがしたい。 頭によぎったこの単語に、自分で驚いた。 だってここは人通り少ないとは言えゲフェンの街中。時刻は真昼間。 俺の手にはドーナツの紙袋。
1 食べたいと言ったのはカリシュのほうだ。 ゲフェンの本店のドーナツが食べたいと、炭鉱で狩りをしていたら突然ぶつぶつ呟きだした。 カリシュはあまり「どこそこの何々が食べたい」とか、「なんとかの時はこれに限る」とか、そういった事を言わない。 元々、物欲の少ないタイプのようだが、殊に食べ物関連の事となるとほとんど関心を示さない。 味覚音痴ではないらしいが(むしろなかなかいい舌をしてると俺は思うのだが)、カリシュにとって食事とは、取りさえすれば内容はどうでもいいものらしく、彼に飯の買い物まかせると平気な顔で数週間同じメニューを買ってくる。 だから彼からの指定された間食の要望は俺にとってかなり珍しいものだ。 発言しないだけで内心では考えているのかも知れないが、滅多に言わないのだから言った時くらい素直に叶えてやりたいと思う。 幸い、ゲフェンは炭鉱から最寄りの町だったし、何はなくともとりあえず寄る腹積もりだったので、 狩りもそこそこに引き上げて町に戻り、ドーナツを買いにいってきた。 そういえば、以前にティアスやシスナに付き合わされて同じドーナツ屋に来た事がある。 なんでもこの店は美味しいと一部には結構な評判らしい。 プロンテラに出張店を出していたのを何度か見かけたこともあった。 でもカリシュが自分から食べたいなんて言いだしたのは今回がはじめてだ。 そもそも、相方がドーナツなんていうものを食ってるさまを見たのは、ティアスたちと一緒に食べた時が最初で最後だ。 意外といわれれば意外だし、ドーナツぐらい誰だって食べるだろうといわれれば、まったくその通りだ。 2 サー……っ 心地良い風が頬をなでて、俺は我にかえった。 「(………ドーナツの経歴はいいんだよ…)」 緑の鉄枠で組まれたベンチに座ったまま、足をくみなおした。 隣で相方はあれほど食べたいと言っていたドーナツを、俺に持たせたままぼぅっとしている。 どこか遠くを見ている横顔。通った首筋、顎、口。 視線でなぞると、やはりそこに触れたいと思う電波か信号か何かが強烈に脳を刺激する。 両手にドーナツ。 そしてここはゲフェンの昼下がり。 俺は自分で、カリシュよりは良識があると思っている。自負しているからには、態度で示すべきだ。 まさかこんなところで、男二人が……引っ付いたり…できないだろう。 欲情…などではないと思う。そんなたいそれたものじゃあない。 それは俺がその単語を頑なに否定したいだけなのかもしれないが、実際、血流が激しくなるだの息が荒くなるだのといった症状は見られない。 むしろその逆で、たいへん落ち着いたこころもちだ。 触れたい。 しかしながら厄介な事に、世間は野郎同士で手を触れ合うことさえも正常視してくれない。 別に周りを気にしているわけじゃないんだが。 だいたい周りといっても、この通りはこの時間帯、人っ子一人通らないし。 人ごみが得意でない自分達にはとても都合のいい場所ではあるが。 「………」 こういう時、カリシュは一度黙り出したら自分から喋るまで、俺の呼びかけにも上の空だ。 ベンチに腰掛けているので横目にしか彼の様子が観察できない。 あんまりちらちら横ばっかり見ていてもおかしいから、視線を地面に泳がせるほか俺にはすることがない。 カリシュが食べたくて買ったドーナツを俺が先に食うのもなんだし、紙袋は両手にかかえられたまま。 「(手に触れるくらいなら口のほうがまだ自然だよな…)」 俺は自分達の奇妙な関係を改めて考えてながら、胸元のポケットをさぐる。 無意識に探していた煙草がそこに入っていなかったので、やり場のなくなった手で紙袋の封を切った。 3 ドーナツ屋は。 親子連れやカップルや若い女の子たちで溢れかえっていた。 さすが有名店だけはあると思った。 カリシュにまかせたら何を買ってくるか解からないので、俺が買うからといって彼を外に待たせておいた。 おぼろげな記憶をたよりに、たしか以前、相方が食べていたであろうシナモンとビターチョコを1つずつと、何も装飾されていないシンプルなノーマルというドーナツを2つ買った。 そんなに量はいらないだろう。 紙袋につめてもらっている時なんとなく周りをみまわした。 あたりの人達はそこそこの人数連れで、やけに楽しそうな会話が飛び交っている。 まあこんな時間にドーナツ屋に一人でくることもないだろうが。 その時、俺はふと思ってしまったのだ。 もしかして、一人で居るのは自分だけじゃないのか? 慌てて当たりをみまわすと、暖色の灯りに照らされた人達がさっきより遠巻きに笑っている。 何もかもが遠いのだ。物理的距離を無視して、手を伸ばしても届かないくらいに遠い。 この時感じたのは、既視感なんかじゃない。 世界にぽつんと、一人で立っているようなそんな感覚だ。 孤独とも不安とも言えるし、あえてそれに限定することもないような気がする。 空を切ったような物足りなさ。肩すかしをくらったような恥かしさと情けなさ。 急に襲ってきた焦燥感に、俺は一瞬すごく戸惑って、店員から受け取った紙袋をきつく握り締めたまま この感情をやりすごそうと、地面を睨み付けた。 そうだ。 別に俺は一人っきりというわけじゃない。 俺には、 頭によぎったと同時に振り返っていた。 店先のウィンドウに持たれかかっている見慣れた影。 目に飛び込んできた鮮やかな銀髪。黒法衣を大きく着崩した風体。退屈そうにどこかを眺めている瞳。 カリシュはそこに、いつもと寸分狂いない姿で立っていた。 詰まっていた息がすっと抜けていった。肩の力が拡散されていく。 そして酷く安心しきった俺の脳は、 あの形のよい唇に触れたいと、うつろに考えていた。 4 店を出て、二人でこのベンチまでくる途中、その事をずっと考えていたのだが。 結局、俺が思ったことを要約すると、キスがしたい、ということになる。 妙な間柄であるこの相方と。男だということに、今更戸惑いはしないが。 「仕方ない。」 突然隣に座っていた相方が言葉を発したので、俺は驚いてカリシュのほうを見た。 「食うか、それ。さめるだろ」 彼が何を考えていたかは知らないが、とりあえず当初の目的に思考が戻ったらしく、俺はほっとため息をついて頷いた。 「あ…。だな、」 顎でくいとさされたドーナツの紙袋を、俺は開いて中からシナモンドーナツをつまみあげて相方のほうへ持っていく。 「ほら」 カリシュは組んでいた腕をほどき、それを受け取るのかと思うと、左手をベンチの背中に回し、右手を座席部について、 口だけでそれに食いついた。 「…ッ!」 正直、焦った。半開きになった蒼い眼を見ながら、睫毛が長い、とか思っている場合ではない。 俺は反射的に仰け反ってつまんだドーナツから離れた。 「お、おい…!」 こちらとしては、こんな風に食わせるつもりなど毛頭なかったわけだから、そのドーナツは結構低空で停滞しているのだが。 カリシュは何も言わないまま、肩あたりまで首をかがめ、そのままそれを食べつづける。ドーナツとて有限だから、どんどん小さくなっていく。 「ちょ…、」 っと待て、と言いかけて俺は言葉を飲み込んだ。カリシュが最後の一欠けらを俺の指ごとくわえたからだ。 吃驚して声も出なかった、というのが正しい表現。 肩から上にかけて急な熱がかけめぐったが、背筋にはサァっと冷たいものが走った。つまりは動転したわけで。 「…………」 手に付いた僅かなシナモンと砂糖を綺麗に舐め取るように舌が指の腹を撫でる。 こくん、と喉がドーナツを飲み込んだのが見えた。 すっと離れていくカリシュの顔。濡れた指。ちらっと覗いた口内の赤い色。 強制的に止められていた何かが、今ならいいと背中を後押ししたから、俺はカリシュの袖口を掴んでさっきまで指を食んでいた赤いそれに 黙って自分の唇を押し当てた。 人が居なかったの幸いだろう。 よく考えるとドーナツを指ごと食ってる時点でちょっと道から外れているような気もするのだが、あえてそれは無視するとして。 カリシュが目を見開いていることだけが意外だった。 5 「食わんのか?」 しばらくほうけていた俺に、相方は何事もなかったように問いかける。 何の事を言っているのか、思考回路がうまくまわらなくて首をかしげると、彼は馬鹿でも見るかのようなあきれた顔つきで 「残りの」 と低い声を出した。 「…………お前ってさ…」 俺は正気に戻っていたんだろうか。急に肩の力がぬけて、ため息が出た。 「あぁ?」 「いや、…」 言ったって仕方ないだろう。俺は黙って相方のペースに合わせる。 「俺の分はもう無いの?」 相方の質問に顔をあげると、彼はしたり顔で深い笑みを浮かべていた。 「ッ!二度とやるか!!」 紙袋ごとドーナツを投げつけてやったが、変な所器用な相方はそれをきちんと受け止めてから、 たまらなく可笑しいという顔をして、声をあげて笑った。 |
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|||End:. 2003'09'07 Cinnamon honey |
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