母のように(前)
『母のように(前)』
夢。
それは夢の中。
夢の中で俺は母に抱かれていた。
そして赤子のように乳を吸っていた。
それは遠い記憶。
遙か遠い遠い記憶。
俺が小さい頃の記憶にないときのこと。
誰もが経験し、記憶を残さないときのこと。
そんなときの中で俺はいる。
それは遠い昔のこと。
今では忘れてしまった大切な記憶。
「……こうちゃん」
俺の頭を優しく撫でてくれる。
それはとても温かく、優しく、包み込むように。
ゆっくりと撫でてくれる。
「母さん」
俺は母に抱かれながら乳を吸う。
赤子に戻ったような気分。
いや、戻っているのかもしれない。
俺の心が安らぎに包まれる。
母の愛が俺の全てを包み込んでくれる。
「可愛い可愛い、私のこうちゃん」
「……母さん」
父さんも母さんもお仕事で家にいないときがたくさんあった。
いろんな事があったんだよ?
父さんも母さんもいない間にね、いろんな事があったんだ。
「真奈が夜、泣き出したときは困ったんだ」
「…うん」
「『母さん母さん』って泣いちゃって困ったんだ」
そして“僕”まで泣いちゃった。
僕も真奈も寂しくて、2人で泣いちゃった。
そしたら、いつの間にか朝になっていた。
朝になったら2人とも泣かなくなって、元気に学校に行ったんだ。
「僕たちは、ずっと寂しかったんだ」
広い家の中で小さい子供が2人っきり。
とてもとても寂しかった。
たくさん泣いた夜もあった。
真奈と一緒に寄り添いながら寝た夜もあった。
「でもね、そんな僕たちに友達ができたんだ」
「友達?」
「うん! “雪音”ちゃんって言うんだよ」
雪が好きな雪音ちゃん。
僕たち兄妹にできた、初めてのお友達。
どんなときも笑っていて、僕たちを励ましてくれた。
とても大切なお友達。
「それはよかったね」
「うん! でね、僕は雪音ちゃんが好きになったんだ」
元気いっぱいの姿。
明るい笑顔。
優しい心。
雪音ちゃんの全てが好きになったんだ。
「それでね、僕は雪音ちゃんをたくさん助けたんだ」
「そうなんだ。雪音ちゃんも嬉しかったでしょう」
「うん。だけど、ひとつだけ喜んでくれなかったんだ」
車に轢かれそうになった雪音ちゃんを助けたんだけど・・・
代わりに僕が轢かれちゃったんだ。
そしたら雪音ちゃんが、とても悲しんだ。
涙をいっぱい流して悲しんだんだ。
「雪音ちゃんは自分のせいだって、泣いちゃったんだ」
「……雪音ちゃんも苦しかったんだろうね」
「そうだと思う。僕も苦しかった」
そんな雪音ちゃんを見ていると悲しかった。
心がとても痛くなった。
「でね、今度は僕が助けられたんだ」
片足が不自由になってしまった僕が、車に轢かれそうになったんだ。
そしたら雪音ちゃんは僕を助けて、代わりに轢かれたんだ。
僕がしたときと同じように。
「それで雪音ちゃんは何も見えなくなっちゃった」
「………」
「僕が悪いのかな? 僕のせいなのかな?」
僕が雪音ちゃんから眼をとっちゃったの?
全部、僕が悪いのかな?
「雪音ちゃん、きっと怒っているね」
「そんなことはないよ。雪音ちゃんは怒ったりしていないと思うな」
「どうして?」
「それは、こうちゃんが一番わかっているでしょう?」
「…うん」
それでも雪音ちゃんは僕の事を好きだと言ってくれた。
僕もそんな雪音ちゃんが大好きだ。
どんなになっても雪音ちゃんは雪音ちゃんなんだ。
「あとね、真奈もたくさん助けてくれたんだ」
あんな小さかった真奈がいつの間にか大きくなっていた。
そして僕をたくさん助けてくれたんだ。
「感謝してもしたりないくらい、助けてくれたんだ」
「そう、兄妹は助け合わなくちゃね」
「うん。僕もそう思うよ」
真奈はこれからも僕を助けてくれると言った。
僕も真奈を助けていくんだ。
「僕たち兄妹はとっても仲良しなんだよ」
「そう、それを聞いて安心したわ」
「それと、雪音ちゃんを入れて3人は、とーっても仲良しなんだ」
3人はずっと一緒。
これからも、いつまでも仲良しなんだ。
「さぁ、もう寝なさい」
「うん、寝る」
僕は母さんの胸に抱かれながら目を閉じる。
少しずつ目の前が暗くなっていく。
目が開けられないよ。
もう、眠くなちゃった。
とても・・・安心できる場所。
………
…………
……………
「……う……うん」
俺の目がうっすらと開く。
ふと気が付くと俺は誰かの胸に抱かれていた。
「…母さん?」
「起きた?」
母さんの声じゃない。
でも、この声を聞くと、とても安心できる。
心が安らぐ。
「夢を……見た」
「夢?」
「母さんの夢。夢の中に母さんがいた」
確かにいた。
夢の中には幼き頃の俺と、そんな俺を優しく包み込む母。
いつだったか憶えていない。
俺が小さい頃の話。
とても小さい頃の母の面影。
あまりよく憶えていないが、確かに母さんはいた。
両親がいないときの方が多かった我が家。
そんな中での小さな思い出。
真奈と2人で過ごした幼き日の頃。
夜になると真奈が泣き出したこともあった。
真奈を慰めようとすると、俺まで泣いてしまったこと。
2人で同じベッドの中で寄り添うように寝て朝を迎えた日のこと。
子供心ながら辛かった日々の出来事。
寂しかった思い出。
悲しかった記憶。
ほとんど真奈と2人で生きてきたときのこと。
苦しかった。
助けてほしかった。
でも、誰も何もしてくれなかった。
だから俺は真奈を助けるように生きてきた。
だけど、真実は違った。
俺は真奈を生き甲斐とし、俺が真奈に生かされていた。
真奈が俺を必要としたのではなく、俺が真奈を必要としていた。
俺と真奈。
俺達はお互いを支え合いながら頑張った。
両親がいない家の中でいるのは兄妹のみ。
そんな2人が助け合うのは当たり前だった。
しかし、小さな2人には限界があった。
乗り越えられない壁があった。
現実。
俺達に“現実”という壁はあまりにも辛かった。
俺達兄妹だけでは現実は辛すぎた。
だけど、その現実という壁をうち破ってくれた人がいた。
雪音。
雪音は俺達兄妹に初めてできた友達。
きっかけは憶えていない。
それは遙か遠い昔のこと。
俺と雪と真奈。
俺達はいつでも一緒だった。
どこに行くにも何をするにも一緒だった。
雪音はいつも明るく、元気に俺達を励ましてくれた。
どんなときも挫けず、頑張り屋な姿に俺は少しずつ惹かれていった。
雪音の姿を追いかけていた。
いつも俺が前にいたのだが、前から見ていた。
どんなときもいつまでもずっと雪音を見ていた。
雪音もそんな俺をずっと見続けてくれた。
それだけで十分だった。
雪音がいるだけで、それだけで本当に十分だった。
本当の幸せ。
俺はそれを見つけたような気がする。
いつも幸せはすぐ側にあった。
ずっと前からあった。
俺はそれに気づかなかった。
いつしか当たり前だと思っていたこと。
それが幸せだった。
それが答えだった。
俺の求めていたものだった。
手を伸ばせば簡単に取ることができたんだ。
ただ、俺はそれをしなかった。
恐かった。
失うのが恐かった。
壊れるのが恐かった。
雪音を失うのが恐かった。
関係を壊すのが恐かった。
ずっとずっとこのままでいたかった。
だけど、それだと本当の幸せは掴めない。
それに気づいた。
雪音に気づかされた。
俺が心の底から求めていたものは雪音だった。
誰のものでもない。
雪音を俺のものにしたかった。
最初は自信がなかった。
俺がどんなに雪音を好きになっても、雪音が俺を好きになる理由にはならない。
俺がどれだけ想っても、雪音が想ってくれることにはならない。
そう思い続けていた。
そしていつしか心の奥底に隠してしまった。
雪音に対する想いを自分でも気づかないところに押し込んでしまった。
時が経ち、俺が完全に忘れてしまっていた頃。
雪音からの告白。
それをきっかけに俺の心が解放された。
全てを呼び覚ました。
雪音を想う気持ち。
ずっと隠してきた気持ちが飛び出したときは俺自身わからなかった。
その事実に困惑するだけだった。
雪音を手放したくない。
雪音を誰にも渡したくない。
俺の中には雪音が溢れていた。
想いが尽きることなく溢れていた。
俺だけを見ていてほしい。
俺の側にずっといてほしい。
俺から離れないでほしい。
欲望ともとれるものが心に流れてきた。
異常なまでの独占欲が俺の中を占めていた。
そんな俺を見て雪音はどう思うだろう。
俺から離れるに違いない。
こんな俺を嫌いになるに違いない。
でも雪音は違った。
雪音も同じだった。
俺と同じ気持ちだった。
何も心配することはなかった。
すべては俺の思い過ごしだった。
俺が雪音をずっと見続けてきたように、雪音も俺をずっと見続けていた。
俺と雪音の関係が崩れたとき、新たな関係が築かれた。
それが幸せ。
その関係こそが俺と雪音が求めていたもの。
ずっとずっと前から望んでいたもの。
胸の奥で願っていたもの。
本当の幸せ。
「くっ………いろいろあった」
俺は気づかぬうちに涙を流していた。
そして抱きしめていた。
俺を抱いてくれる人を強く抱きしめていた。
「……浩ちゃん」
優しく髪を撫でてくれる。
俺の存在を包み込んでくれるように優しく。
とても温かく抱きしめてくれる。
「ぅぅ………ゆき」
「いいんだよ、今はたくさん泣いていいんだよ」
「ぅぅ………ぅ」
声にならない声で泣く。
雪の小さな体を力いっぱい抱きしめながら泣く。
辛かったこと。
悲しかったこと。
嬉しかったこと。
楽しかったこと。
たくさんの想いを胸に涙を流す。
俺が安心できる場所で・・・
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