弐 正気

『正気』


俺は暗い夜道を歩き、家に帰る。

服にはベッタリと返り血を浴びているが、気にしない。
辺りには民家は無いし、見られたところでどうでもいい。
俺は何一つおかしな事はしていない。
なぜなら俺は正気だから。
狂ってはいないから。

「俺は正気を保っている」

そうだ。
俺は正気を常に保っている。
狂っているのはアイツだ。
俺に怯え。
俺を恐れ。
叫びながら絶命した。

「なぜ、そうなるのだ?」

俺が恐い?
俺は普通だ。
俺を恐れるのはおかしい――だから刺した。
それだけのこと。

そんなことを考えていると、家が見えた。
俺が住んでいる家。
辺りに民家はなく、あるのは俺の家だけ。
少し離れた場所に他の家があるが知ったこっちゃない。

「……あれは?」

俺の家の玄関に女が立っている。
その女は俯いて、足をブラブラとさせながら誰かを待っているようだ。

「………ふん」

俺はそれを気にした様子もなく家に向かう。
すると、その女が俺に気づき、声をかけてきた。

「もうっ! 今まで何処に――きゃぁっ」

そこまで言って女は叫んだ。

「ど、どうしたの? ケガでもしたの?」

返り血を浴びた俺を見て叫ぶ。
そして俺の元に駆け寄ってくると、オロオロとしながら言葉を発する。

「だ、大丈夫? 痛くない?」

「………別に」

「えっと……きゅ、救急車を呼ぼうか?」

「……いらない」

俺は素っ気なく返事をすると、鍵を開けて家の中に入る。
すると女も俺に続いて中に入ってくる。

「と、とにかく服を脱いで傷をみせて」

「……何処にも傷はない」

「そ、そうなの?」

女は安心したように胸を撫で下ろす。
俺は女を気にしたこともなく、靴を脱いで廊下にあがる。

「ふ、服を脱いで。あとで洗っておくから」

それを聞いた俺は、その場で上着を脱いで渡す。
そして俺はリビングに向かった。

ドンッ!
リビングに着いた俺は、乱暴に椅子に座る。
机に置いてある煎餅を口に放り投げ、バリバリと噛み砕く。

「人間も噛み砕けたらいいのにな…」

「な、なに恐いことを言ってるのよっ」

俺の独り言を聞いていた女が叫ぶ。
いや、叫んだわけではないのだが、俺にはそう思えた。

「お腹空いているでしょ? 何か食べる?」

「……ああ」

俺がそう返事をすると、女はキッチンに向かった。
なんとなく後ろ姿を眺めていると、ふと疑問を抱いた。

「……あの女は誰だ?」

記憶が混乱する。
俺は知っている、女も俺を知っている。
母親ではない。
それは確かなのだが・・・

「……おいっ」

俺が呼ぶと、女は俺の側にやってきた。
俺はさっきの疑問をぶつけてやった。

「お前は誰だ?」

「え?………き、記憶がおかしくなっちゃったの?」

「………いや」

「……冗談?」

女は信じられないと言った顔で俺を見つめる。
そんな女に俺は続けて質問する。

「……本気で聞いている」

「やっぱり……どこかケガをしたの? 頭を打ったの?」

「…それはない」

「病院に行った方がいいよ……涼ちゃん」

ああ、思い出した。
俺は涼。
そしてこの女は俺の幼なじみの“氷澄”。

「……氷澄」

「え? やっぱり憶えているじゃない」

「…そのようだな」

「もうっ、私はキッチンに戻るからね」

怒りながら、でも少し嬉しそうにしながら戻っていく氷澄。

なぜ俺は忘れていた?
自分の名前。
あいつの名前。
俺は正気じゃないのか?
俺は正常じゃないのか?

俺は・・・狂っているのか?




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