第1話『思いでの人』
第1話
『思いでの人』



その少年は公園の隅にあるベンチで泣いていた。
両親を事故でなくし、妹とふたりっきりの状況に泣くことしかすべがなかった。
8歳という幼い年齢ならそれも仕方ない。この少年はしばらくは泣く毎日を過ごすだろう。
「ぐすっ……うぇぇ〜ん」
声を出して泣いても誰も来てくれない。いつも来てくれる親はもういない。
困っていたら助けてくれる父も、泣いていたら優しくなだめてくれる母も過去の幻影である。
その事実は少年にとってあまりにもショックだった。妹にとってもショックだったに違いないが、2歳という年齢では今の状況を把握するだけの知恵はなかった。
その点で考えれば、むしろ妹の方が幸せかもしれない。絶望的なことがわかる兄の方が哀れかもしれない。
「おにぃ?」
いつまでも泣きやまない兄に妹は不思議な顔で声をかけた。そのあまりも無邪気な笑みに兄は悲しみを覚えずにはいられなかった。舌足らずなしゃべり方が哀れさを物語る。
「百合音っ!」
兄は妹の名をつぶやくと、その小さな体を力一杯抱きしめた。そしてまた泣き始める。
しばらくして妹も泣き出した。兄に感化されたかだろうか、グスグスとぐずりはじめた。
そんな2人を眺めている女の子の姿があった。可愛らしい顔立ちのお嬢様といった出で立ち。
子供ながら風格と高級感を漂わせる服装が少し目立っていたが、周りの大人はこの少女がどこぞの財閥の令嬢が知っているので、自分の子供を近寄せないのである。
そのせいもあってか、少女はいつも一人だった。誰も相手にしてくれないで内心は寂しいのだが生まれ持っての気質のせいか、泣き言は一言も言わず強気な態度である。
「どうしたの?」
少女が兄妹に声をかけた。
兄はその少女の問いかけに気づかなかったが、妹は気がついて振り向いた。
「だぁれ?」
妹は舌足らずながらも訪ねた。少女は一瞬ためらったが、思い切って言葉を発した。
「あんまり泣いていると幸せが飛んでっちゃうわ。笑った方が幸せになれるのよ」
「?」
少女の言葉に妹は首を傾げた。2歳の子供には少し難しかったようだ。
意味が通じていないと分かった少女は今度は泣いている兄の方に向かって言った。
「男の子が泣かないのっ!」
「ぐすっ……え?」
「ほらっ、あなたが泣くと妹まで泣いちゃうでしょっ!」
その言葉に兄は妹の方に目を向けた。妹は不思議そうな顔をして兄を見返す。
無邪気な顔を見て兄は自分を情けなく感じた。自分よりずっと幼い妹は泣き言を言わないのに自分は泣いてばっかりで恥ずかしいと感じたのである。
「そうそう、男の子は泣かないの」
兄が泣きやむと少女は嬉しそうに微笑んだ。そして訪ねる。
「お名前は?」
少女の問いに兄妹は、
「祐樹」
「ゆぃね」
「妹は百合音」
すかさず祐樹はまだ自分の名前をはっきり言えない妹のフォローをする。
今度は祐樹が聞き返す。
「君は?」
「私?私は――」

「ふわぁ〜」
祐樹は大きな欠伸をしながら起きあがる。
ここは祐樹がお世話になっている下宿である。まるで昨日のことが嘘のように思えるような清々しい朝。洗面台に向かうと蛇口を捻り、流れ出てくる冷たい水で顔を洗う。これで今日一日が始まる。
「なんか足が怠いな」
昨日の疲労がまだ少し残っている様子。あれだけ全速力で走れば誰だって疲れる。
さすがの祐樹も堪えた。いくらバイトで鍛えていても家まで一気に走り抜ければ体力を消耗するのは道理。あの豪邸から家までがかなり距離があるのだが、追っ手を恐れた祐樹は休むことなくこの下宿まで逃げてきたのである。
「結局、昨日のは何だったんだろうな?」
よくよく考えれば変な話である。
俺がどこぞのお嬢様と結婚なんてどう考えてもおかしい。心当たりはないし、俺は金持ちとはなにひとつ縁がない。やはり昨日のは人違いなんだろうな。
祐樹はそう思いこむと支度をして部屋を出ようとしたが、
「あっ、忘れてた」
大切なことを思い出す。昨日の出来事で百合音の見舞いをすっかり忘れていたのである。
「どうすっかな…」
くしゃくしゃと頭をかく。これは祐樹が困ったときに遭遇するとしてしまう癖だ。
部屋の真ん中に置いてあるテーブルの外周を回るようにウロウロする。
仕方がない、今日は大学をサボって百合音の顔を見に行くか。幸い、今日の講座はたいしたことないしな。
祐樹はそんな答えを出すと部屋を出た。
「今日は絶好の見舞い日だな」
さわやかな朝日を見上げると祐樹は言った。そんな日があるのかどうかは別として、祐樹の心の中は不安と喜びとが混ざり合っていた。昨日、百合音に会うことができなかったから泣いているのだろうか?それとも今日は朝から会いに行くので喜んでくれるだろうか?
祐樹の心は高鳴っていた。どちらにしても唯一の肉親である妹に会うのが祐樹にとって、なによりも嬉しいのは事実なのである。
「おはようございます、祐樹さん」
「お、おはよう」
微笑んで挨拶をする制服姿の女の子に祐樹は一瞬とまどった。
女の子の名前は”槙原 美奈子”、大家の娘でこの下宿のちょっとしたアイドルである。
可愛らしい顔立ちに背丈は150ぐらいと18歳とは思えないほどの小柄な体。髪を長くのばしており、少し目が悪いのかメガネをかけている。一見すると地味だが、メガネを取るとかなり可愛らしい。でもメガネがないとよく見えないので失敗ばかりする姿が可愛さを増長するのは美奈子だけの特権だろう。それがこの下宿のアイドルたる由縁である。
なぜ、こんな可愛らしい女の子に祐樹は戸惑うのか?
別に女性恐怖症なのでもなく、それはちょっとしたことが原因なのである。
「私、やっぱり納得できません」
「………」
「祐樹さんのこと、諦められません」
「前にも言ったけど、俺には君を幸せにすることはできない。それに――」
「それに?」
「君に好意を寄せてもらう資格は俺にはない」
祐樹は顔を反らせて言った。その言葉に美奈子も黙ってしまった。
2人の間に気まずい空気が流れる・・・。だが、そんな空気を断ち切る人がいた。
「美奈子っ!早くしないと学校に遅れるわよ」
「あ、はーい」
美奈子は返事をすると顔を合わせないようにしている祐樹に素早く近づき、頬に軽くキスをすると足早に去っていった。駆けて行く美奈子の顔が少し赤く上気していることに祐樹は気づくことなく、呆然とその姿を見送る。
「あの子ったら」
小さくほくそ笑み、祐樹に近寄ってくる女性。この下宿の大家で美奈子の母である”槙原 恭子”、年齢が40近くだというのにとても若々しく、美奈子と歩いていると年の離れている姉妹と間違われることもある。早くに旦那を亡くし、女手一つ娘を育ててきたという肝っ玉母さんである。
「恭子さん、おはようございます」
「おはよう、祐樹くん」
この下宿の中で、唯一祐樹の家庭の事情を知っているのは恭子だけである。
美奈子を含むそれ以外の下宿に住む学生たちは誰一人祐樹の過去をしらない。祐樹がそれについて何一つ話そうとしないから、ほかの人間も聞こうともしなかった。ただ、恭子だけは本人からではなく祐樹の親戚から聞いていたので知っているのである。そう、祐樹の親戚と恭子は知り合いだったのだ。
「祐樹くんの気持ちも分かるけど、美奈子の気持ちも分かってあげてね」
「…はい」
「そんなに自分を卑下することはないと私は思うんだけどね?」
「でも、俺には背負っているものが大きいので…」
祐樹の背中には”百合音の世話”という使命が重くのしかかっていた。
たった一人の肉親である妹を立派に育ているという責任感が祐樹をここまで動かしてきた原動力でもあり、生きていく意味だと祐樹自身思いこんでいたところがある。それがある限り自分のことは二の次だと言い聞かせて努力を惜しむことなく大切な時間を費やしてきた。
「そんな祐樹くんの姿を見て、あの子は惹かれたんだろうね」
「俺にはもったいないことです」
「そうかしら?私が言うのもなんだけど、美奈子はいい子に育ってくれた。その美奈子が祐樹くんのような立派な人を好きになってくれてとても嬉しいわ」
「立派じゃないです」
「人間ってね、自分の姿はわかるようでわからないのよ」
「そうでしょうか?」
「そうよ。人生経験豊富の私が言うのだから間違いないのよ!」
そう言って恭子は胸を張った。祐樹はなにを言っていいのかわからず、ポリポリと頭をかいた。
恭子は祐樹のことをとてもよく理解している。ネガティブな祐樹を励ますようにいつもいろんなことを言うのだが、当の本人である祐樹はイマイチその言葉に乗れなかった。別に反抗するわけではないが、素直に受け止めることができなかった。それは祐樹のせいじゃない、育ってきた環境が祐樹をそう考えるように変えてしまったのだ。そのことは祐樹自身わかっているのだが、どうしようもなかった。
「もし、祐樹くんが好きな人がいるなら美奈子にはっきり言ってあげてね」
「そんなのいませんよ。ただ――」
「ただ?」
「過去の記憶の中に会いたい人はいるんです」
「女の子?」
「はい。両親を亡くした頃に励ましてくれた人なんです」
「よくある思い出の人ね」
「……はい」
「いつ頃の話なの?」
「10年以上も前の話です。顔どころか名前も覚えていません」
そこまで言って祐樹はため息をついた。名前も覚えていないことを常々不思議に感じていた。
いくら過去のこととはいえ、名前を覚えていないと言うのはあまりにも不自然だ。
それにいつ別れたことさえ覚えていない。これはいったいどういうことだろうか?
祐樹の頭の中がこんがらがってきた。
「まっ、祐樹くんがどう思っているかはしらないけど、美奈子は本気だからよろしくね」
「よ、よろしくと言われても…」
「では聞くけど、祐樹くんは美奈子のこと嫌い?」
唐突の質問に祐樹は面を食らったような顔した。
美奈子の母親の前で嫌いとはいえない、かといって好きとも言えないのは明らか。
ここは素直に言うのが一番と思った祐樹はこう言った。
「妹に似てるんです」
「美奈子が?」
「…はい。百合音にどことなく似てて――」
「ごめんなさい。この話はやめましょう」
気を利かせた恭子はすぐさま話を打ち切った。恭子の気持ちを察した祐樹はほっと胸をなで下ろした。そして百合音が話にでたところで思い出す。
「恭子さん、俺もう行きます」
「あ、はいはい。いってらっしゃい」
「いってきます」
こうして祐樹は下宿を後にした。




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