第2話『ダーリンと呼ばないで』
第2話
『ダーリンと呼ばないで』



昨日とは違い、今日は無事に病院に着いた祐樹はすぐさま百合音の病室に向かった。
3階のある病室の前に立ち止まる祐樹。祐樹はこの病室の前に来るたびに親戚に感謝せずにはいられなかった。最初のうちは同じ病室に何人もの患者がいる部屋だったのだが、祐樹が稼いだお金に上乗せをして個室をとってくれたのである。祐樹は最初断ったのだが、どうしてもそうさせてくれと言う言葉に妥協するしかなかった。祐樹も内心は嬉しかった。個室だと2人で好きなだけ話せるし気を遣う必要がないからである。それは当の本人である百合音にとっても喜ばしいことだった。弾けんばかりに喜ぶ百合音は以前にもまして元気になり、顔色もだいぶよくなってきたのである。
「百合音、入るぞ」
祐樹は2回ほどノックをして扉を開いた。そこで沈黙。
「お、お兄ちゃん?」
「あら、祐樹さん」
祐樹が見たもの、それは着替え途中の百合音とそれを手伝っている看護婦の姿だった。
「わ、悪りぃ」
あわてて祐樹は廊下に出て扉を閉めた。
心臓が張り裂けそうなほど高鳴っているのに気づく。自分の胸を押さえ、一つ深呼吸をする。徐々に鼓動は収まり、冷静になると不思議なことに気づいた。
どうして百合音は悲鳴を上げなかったんだ?
そんなことに気づく。いくら兄妹と言っても男に見られたら普通は悲鳴のひとつをあげるのが女の子である。それが何一つ言わずに兄の方が焦っているのはあまりにも滑稽だ。
「祐樹さん、いいですよ」
中から看護婦の声が聞こえたので祐樹は照れくさそうに扉を開いた。
「お兄ちゃんっ!」
入るやいなや、百合音の怒った声が祐樹の耳に響いた。祐樹はすぐさま頭を下げ謝る。
「わざとじゃないんだ!悪かった」
「どうして……どうしてっ」
百合音はベットから飛び降りると祐樹に抱きついた。突然のことで驚きながらも百合音を支える祐樹。その理由はわかっていた。それだけに祐樹はなにも言わず百合音を抱きしめた。
「ごめんな」
「ぐすっ……寂しかったよ…」
「ああ、兄ちゃんが悪かった」
すがりつくように泣く百合音の涙が祐樹の服を濡らす。だが、祐樹はそんなことは気にすることもなく、泣きじゃくる百合音の頭を優しくなでた。祐樹が撫でるたびに百合音の長い髪が綺麗に流れる。14歳のわりには小柄で幼い顔立ちは普通の子より成長が遅れていることを示していた。
「祐樹さん、失礼します」
馴染みの看護婦が兄妹の邪魔をしないように一言だけ言って去った。
個室には2人だけになった。だが、百合音は泣きじゃくり祐樹はそれを優しくなだめるしかなかった。

「失礼しま〜す」
泣き疲れたのか百合音が寝てしまったときのこと。病室に看護婦が入ってきた。
祐樹は小さな声で返事をするとその看護婦も気づいたのか静かに入ってきた。
「こんにちは、祐樹さん」
「彩乃さん、こんにちは」
看護婦の名は”橘 彩乃”、背丈は160ほどのおっとりしていて少しドジな22歳。
一応、百合音の担当看護婦なのだが失敗が多いので先輩がたまについていたりもする。今日、祐樹が目撃してしまった着替えなんかがいい例だ。ドジだが人当たりがよく愛嬌があるので誰もが憎めない存在である。
「お昼、まだでしたら一緒にどうですか?」
彩乃にそう言われて祐樹は時計を見た。そして今がもう昼だと初めて知った。
もうこんな時間か、それになんかお腹が空いてきたな。
そう思った祐樹は彩乃の誘いを受け昼食を食べに病室を出た。

病院の手前にある喫茶店。そこに2人はいた。
「いつも百合音がお世話になってます」
そう言って祐樹は向かいの席に座る彩乃に軽く頭を下げた。彩乃は祐樹の行動にあたふたして水のコップを落としそうになった。そこを祐樹がすかさず拾い上げると今度は彩乃がぺこぺこと頭を下げる番だ。こんなとこでもドジなところは相変わらずだった。
「私ってば、いくつになってもドジで百合音ちゃんだけでなく祐樹さんにまで迷惑をかけてます」
「彩乃さんは頑張っているよ。そのおかげで百合音は前よりずっと元気なんだから」
「うぅ、そう言われると救われます〜」
涙をお手拭きで拭いながら目の前に置かれているスープをすする彩乃。その姿があまりのも可笑しくて祐樹は吹き出さずにはいられなかった。そんな祐樹を不思議そうな顔で見る彩乃、祐樹はなんでもないといった風に手を振ると彩乃は気にしたこともなくスープをすすった。
「彩乃さん」
「はい?」
彩乃は手を止めて顔を上げる、
「彩乃さんの方が年上なんだから、俺のことを”さん”付けは変だと思うよ?」
「ふぇ?そうですか?」
「まぁ、彩乃さんがそれでいいならいいけど」
「はいっ」
元気いっぱいに返事をすると彩乃は再びスープに手をやった。祐樹も目の前にあるサンドイッチに手を伸ばし口に運ぶ。この喫茶店は値段もお手頃で味も良いと評判のお店である。昼時間帯になると病院関係者がたくさん足を運ぶことでここは繁盛しているのである。
「あっ、彩乃」
「志乃ちゃん」
彩乃に声をかけてきたのは同僚の”笹本 志乃”
志乃は彩乃と祐樹が一緒に昼食をしているのを見て少し笑みを浮かびながら彩乃の肩をつついた。
「うまくやってるじゃない」
「…!」
「告白したの?」
どうやらわざと大きめの声で聞いているらしい。内容は祐樹にまる聞こえである。
すると彩乃の顔が見る見るうちに赤く染まる。それを見た志乃は「ふぁいとっ!」と彩乃の肩を叩いてそそくさと店を出ていった。残った2人は会話が無くなった。気まずい空気が流れる。
「ゆ、祐樹さん」
「な、なに?」
「まだ時間があるので一緒に来てくれませんか?」
彩乃の言葉に祐樹は無言で頷いた。

2人が着いた先は病院の屋上だった。この時間には珍しく誰一人いなかった。
この状況は彩乃にとって絶好のロケーションでありチャンスでもある。ここまで来て自分の気持ちを言わなければ後で後悔してしまうと思い、彩乃は決心した。
「あ、あのっ」
彩乃の言葉に祐樹は手で遮った。彩乃の言うことがわかっているだけに聞きたくなかった。
それを聞いて否定してしまうと、今までの関係が崩れてしまいそうで怖かったから。
「ごめん」
その一言を残して祐樹は屋上を去ろうとした。だが、彩乃は引き留めた。
全身の勇気を振り絞って震える手を伸ばして、祐樹の手を握りしめる。彩乃の行動に祐樹は戸惑った。ここで無理矢理引き離しては後々気まずくなる。何とか納得してくれないものかと祐樹は考えた。
「私の気持ち、本気なんです」
「………」
「祐樹さん」
「ごめん」
祐樹にとってそれが精一杯の言葉だった。

百合音の病室に一人の女性が入ってきた。年齢は19歳で背は小柄、150に毛が生えたほどなのだが本人はそのことを気にしている。整った顔立ちで可愛いと言うよりは美人という形容の方が当てはまる。腰まである長い髪に上品な風格が際だつが、なにより服装が尋常じゃなかった。病院には似ても似つかぬウェディングドレスなのである。そんな不明な女性が静かな寝息を立てている百合音のそばに近づき手を伸ばした。
「大きくなったね」
「すぅ……すぅ……」
「あれから何年も経ったのに、ゆーくんはずっと背負ったままなんだわ」
女性は綺麗な指で百合音の前髪を軽く払いのける。
「ん……おにいちゃん…」
「………」
「すぅ……すぅ……」
「大丈夫よ、これからは私が百合音ちゃんとゆーくんを幸せにしてあげる」
女性が呟いていると、病室に祐樹と彩乃が戻ってきた。
2人は無言だった。さっきのことがあったのもあるが、病室に形容のしがたい人がいるのに気づいて更に無言になった。女性は振り返ると祐樹の顔をじっと見た。その顔の中に昔の面影を見つける。
「ダーリンっ!」
女性はそう叫ぶと祐樹に思いっきり抱きついた。不意を食らった祐樹はそのままの勢いで後ろに倒れてしまった。だが、女性はそんなことは知った風もなく祐樹の胸に顔をすり寄せながら、
「ダーリン!会いたかった〜」
と嬉しそうに叫んだ。それを見ていた彩乃は我に返ると震えた口調で訪ねる。
「ゆ、祐樹さん?これはどういう…?」
「いや、俺にもなにが…」
「ダーリンっ!」
話はこじれるばかりである。祐樹は頭を精一杯振り絞って状況を把握し、言葉を詮索した。
「君は?」
「ふふっ、その聞き方もあのときのままね」
祐樹の問いに女性は嬉しそうに言った。そして、
「私?私は――」




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