プロローグ『思い人』
プロローグ
『思い人』



暇な商売。
そんなことを言ったら深雪が怒るかもしれないが、そう言い表すのが一番しっくりくる店。
――九十九ちゃん。
「暇なわりには経営的には困らない不思議な商売だ」
客がいない店内を見渡しながら耕一は呟いた。
30歳になった耕一は深雪から継いだ店をきちんと継続させている。
最近のペットブームのおかげか、このテの商売はそれなりに儲かるらしい。
朝からひとりも客が来ない日も珍しくなく、そのまま客入りがない日もしばしば。
それでも潰れないのがこの“九十九ちゃん”であった。
「ほーんと、この店も儲かって儲かって店舗拡大でもしようかしらねぇ?」
「そこまで儲かってませんよ」
深雪の言葉にすかさず言葉を返す。
40歳になった深雪は再婚もせず、昔の若々しい姿のまま前と同じ生活をしている。
唯一の仕事を耕一に譲った後は、気が向けば店に顔を出し、見たい番組があれば店のテレビを食いつくように見つめ、眠たくなったら店の奧で寝る――やりたい放題である。
そんな深雪を呆れながらも耕一は見届けていた。
そう、ふたりは義理であれ親子。義妹の佳奈も今では高校生になり、少し大人しくなった。
――そんな変わらない日々。
耕一は相変わらず独身でしがない日々を過ごしている。
「そうそう、聞いた?」
深雪が唐突に尋ねる。
「なにが?」
「静子ちゃん。結婚したんですってね?」
「……!」
耕一の顔が強張る。
かつての恋人の幸せを素直に喜びたいのだが、喜べない理由がひとつあった。
自然に消滅したふたりだが、耕一は心の中ではまだ静子を捨て切れてはいなかったのだ。
「知ってるよ」
「そんな顔しないの。祝福してあげなさいよ」
「…わかってる」
深雪はやれやれといった顔をした。
「過ぎたことはどうすることもできない。それは去った人も死んだ人も同じよ」
「………」
「まだ若いんだからチャンスはあるって」
「そうだね」
力無く答える耕一。
深雪は静かに近づくと、そっと手を伸ばして耕一を抱きしめた。
「お、おばさんっ!?」
「悲しそうな顔をしないで。耕ちゃんは笑顔でいてくれないと困るわ」
「………」
耕一の頬に手を当て、深雪はゆっくりと顔を近づける。
――短いキス。
ふたりの時間が一瞬止まった。
「……おばさん」
「やーね。こういうときは“深雪”って呼んで…」
「深雪……さん」
久しく感じてなかった気持ちに耕一は焦り気味に飛びつこうとしたが、それを止めるように深雪の人差し指が耕一の唇に押し当てられた。
「焦らないの。ちょっと待ってね」
深雪は耕一から離れると、店の入り口を閉めた――。




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