番外編1『春の風』
番外編1
『春の風』



季節は春。
暖かい風が吹き、桜の花びらが華麗に空に舞う。
――そんな季節、九十九深雪は景色を楽しむように近所を歩いていた。
耕一と佳奈も無事に結ばれ、心配事がなにひとつなくなった深雪だが、心の中は少し寂しかった。
「ふぅ…」
小さくため息をつく。
空を見上げると、透き通るような雲、遙か高く輝く太陽、その全てが清々しい気持ちにさせてくれるはず。だが、それでもなお深雪の心の中には小さな穴があいていた。
なにもかもが順調――そう、順調のはずなのに…。
深雪は心の中で呟くと再びため息をついた。
そんなとき、
『くぅ〜ん』
「…?」
深雪の耳に子犬の鳴き声が聞こえた。
キョロキョロと辺りを見渡すが、声の主は見あたらない。だが、微かに声だけは聞こえる。
「いったいどこから…?」
深雪は何気なく歩き続けると、近所の公園に入った。
「このあたりかな…?」
「くぅ〜ん!」
声がよく聞こえることに気づき、近くにいると感じた深雪は近くの草むらをかき分けると、ついに声の主を発見した。
小さな段ボールに毛布が敷かれ、その中で寂しそうに泣いていた子犬が顔を上げる。
「あらあら」
その子犬は深雪と目が合うと、一段と寂しそうに鳴き声をあげた。
「よしよし、お前は捨てられたのか?」
「くぅ〜ん」
深雪は手に持っていたバッグを地面に置くと、子犬を抱き上げた。
初めは小さく震えていた子犬だが、深雪が優しく声をかけ続けると最後には嬉しそうに尻尾を振りはじめる。
「ぺろぺろぺろ!」
「こ、こらこら!くすぐったいってば…」
子犬が深雪の頬を嬉しそうに舐め回す。その感覚に思わずのけぞった深雪は地面に大きく尻餅をついてしまった。
「いたた…。こら、お前のせいでお尻を打っちゃったじゃないの」
「くぅーん」
「ふふふっ。冗談よ」
たわいもないやり取りをしていると、後ろからひとりの男性が近づいてきて声をかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「え?あ、はい」
深雪は差し出された手を見ると、少し遠慮がちに自分の手を乗せた。
あら?この感覚は…?
不思議な感覚にとらわれながら深雪は手を借り立ち上がった。そして両手でさっきの子犬を抱えると、お礼を言って男性に目を向けた。
「……!」
「怪我はないですか?」
「え、あ、はい。大丈夫です」
「それはよかった」
まるで自分のことのように微笑む男性の笑顔に深雪はドキッとした。
「――どうかしましたか?」
「…え?」
どうやらボーっとしていたらしい。深雪はじっと相手を見つめていた事に気づくと、顔を赤く染めながら頭を下げた。
「す、すみませんっ」
「いえ、気にしてませんよ」
「そ、それでは失礼します」
深雪はその場から逃げ出すように走り去っていった。

「――なんてことがあったのよ」
「ふーん」
ここは不況知らずの九十九ちゃん。
今日は日曜になので佳奈が手伝いに来ていた。深雪は同窓会でこの場にはいない。
「あのときのお母さん。なんかいつもと違っていたよ」
「ひょっとして、その人に一目惚れしたんじゃないかな?」
「そうかも。でもね、ちらっと目にしたけど、あの男の人、初めて見た気がしないの」
佳奈の言葉に耕一は腕を組んだ。
様々な憶測が頭を巡るが、まさかという思いに駆られる。
そんなとき、
「あの、すみません」
ひとりの来客が現れた。その姿にふたりは同時に声を上げた。
「あっ…!」
「…?」
同時に視線を向けられたその男性は困惑の色を浮かべる。
「私の顔になにか?」
「いえ、なんでもないです」
「そうですか。えーとですね、ここに“九十九 深雪”さんという方はおられますか?」
「母ですか?」
「息子さんですかっ? いや〜、ずいぶんお若く見えたのですが、こんな大きな息子さんがいたとは…」
男性のセリフに耕一は吹き出した。
「違いますよ。私は義理の息子です」
「ああ、なるほど。では、そちらがお嬢さんですか?」
「はい、そうです」
感心したように頷く男性。佳奈は肘で耕一をつつくと、耳元で小さく囁いた。
「この人だよ」
「そうみたいだね」
耕一は頷くと男性に尋ねた。
「それで母にどのようなご用件ですか?」
「いえ、バッグを落とされたようなので届けに来たのです。失礼かとは思いましたが、住所かなにかの手がかりにとバッグを見てみたら、ここの住所が書いてある紙を見つけて…」
そう言いながら男性はバッグを差し出す。
「あっ、お母さんのお気に入りのバッグだ。間違いないよ」
「わざわざありがとうございます。なにかお礼を――」
耕一のセリフに男性は小さく首を振った。
「いえ、お気遣いなく」
「そうですか。母はあいにく出かけていて留守なんですよ」
「それは残念です。一目だけでもお会いしたかったのですが…」
そんな言葉をこぼす男性の顔が不意に陰りを帯びた。
「失礼ですが、なにか訳ありですか?」
そう尋ねる耕一だが、頭の中ではその答えは既にわかっていた。
「いえ、亡くなった妻にそっくりでしてね。それで…」
「そうですか。それならなおのこと、母とお会いになられますか?連絡はすぐつきますから」
男性はその言葉に小さく首を振った。
「そこまでしてもらわなくてもいいですよ。縁があれば会えると思いますから」
その言葉を残して男性は静かに店を去った。

――今日も春を感じさせる陽気な日。
気がつけば深雪は無意識にあの公園へと散歩に来ていた。
少し風が強く桜の花びらが舞う。あのとき拾った子犬と共に今日も公園へと繰り出した。
「わんわんっ!」
子犬が元気に公園内を走り回る。深雪は隅にあるベンチに静かに腰を下ろした。
「あの人はいったい誰だったのかしら…?」
偶然?運命の悪戯?そんなことがあるはずがない――。
深雪は自分の考えに自問自答した。疑問がたくさん浮かぶ、あの日のことは夢だったのではないかと。
「………」
深雪はゆっくりと目を閉じた。今までのことを振り返るように。
――すると、
ぴとっ。
自分の頬に暖かい感触ができると、深雪は目を開いた。
「……ん?」
「コーヒー、いかかですか?」
「あ、あなたはっ…!?」
風が吹いた。
春にふさわしい、春を呼ぶ風。
桜の花びらを運び、出会いも一緒に運ぶ暖かい風。



< Fin >





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