第3話『とりぷるくろす』
第3話
『とりぷるくろす』
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9時55分。
腕時計を見ながらそわそわしている静子。その胸は今にも破裂しそうなほど高鳴っていた。
生まれて初めてのデート、そのことを意識するたびに頬が熱くなるのを静子自身、自覚できた。
「はぁ…、昨日から心臓がドキドキしておさまらない…」
少し大げさかもしれないが、静子にとっては一大事には違いなかった。
デート前日、静子の態度をおかしく思った両親が今日のことを聞くと、
「まぁっ!静ちゃんにも彼氏ができたのねっ!母さんは嬉しいわ」
「どんな人なんだ?今度、父さん達にも紹介してくれよ」
まるで孫ができたかのように喜んだのだった。静子の両親は、静子が男嫌いで小心者になり、そのせいで同姓の友達まで少ないことに悩んでいた。このまま世間に出て大丈夫だろうか、と心配していたところに今日の話である。喜ばれずにはいられないのは当然か。
「あ、あのね。妹さんも一緒なんだけど…」
静子は誤解されないように付け足したのだが、両親の耳には入らなかった。
「佳奈ちゃんも来るんだから、大丈夫よね」
佳奈がついてくると聞いて静子は少し安心した。だが、それと同時に心のどこかで残念がる自分がいることを静子は気づいていない。そんなことまで頭が回るほど静子はしっかり者ではなかった。
――さて、そろそろ時間が10時に差しかかったとき。
「お兄ちゃんが寝ちゃうから降りそこねたんだよっ!」
「しかたないだろう?バイトあけで寝てないんだっ!」
「そんな言い訳は静姉ちゃんの前に出ていいなさいっ!」
「わ、わかったよ」
騒がしい兄妹が静子に向かう。その光景に静子は今までのことが頭から飛んでいった。
「あ、おはよう」
「お、おはようございます」
「えっと、遅れてごめんね?佳奈の奴が――ぐっ」
耕一の足に佳奈の踵が響く。佳奈の鋭い視線に耕一は苦笑いを零した。
「あはは、降りる駅を間違えちゃって…」
「間違えちゃったんじゃなくて、降りそこねたんだよね?」
「ま、間違えたことには変わりない」
「遅れた事実もね」
佳奈の言葉が鋭く刺さる。耕一はどんどん肩身が狭くなっていった。
「わざとじゃないんだよ?」
「言い訳の前に言うことは?」
「ごめんなさい…」
「あ、いえ…、気にしてませんから。それに時間はちょうどですよ?」
さすがに静子も放っておけなかったのか、小さな声でフォローを入れる。
「普通は男の人が待つの!そんでもって女の人が遅れてきても、さわやかに『俺も今来たとこだから』って言うのがジョーシキなのっ!」
「今時、そんな奴いないよ――ぐっ」
耕一の言葉に佳奈の踵が再び。顔が苦痛で引きつった。
「あ、あの……気にしてませんから」
「まぁ、今回は優しい静姉ちゃんに免じて許してあげるかぁ」
「あ、あはは…」
笑顔をまでもが引きつる耕一。そんなふたりの姿を静子は不思議に思った。
佳奈ちゃんも耕一さんもまるで本当の兄妹ね――不思議な人、耕一さんって…。
「そろそろ映画も始まるし、行こうか?」
「あ、はい。そうですね」
「れっつごー!」
佳奈は、はしゃぎながら耕一の手を取ると駆けだした。
「ちょ、急ぐなって…!」
「いやだよ〜」
ふたりの後ろ姿を静子は慌てて追いかけた。
映画館の前につくと、耕一はチケット売り場の女性に声をかけた。
「あの、幼児は無料ですよね?」
その言葉に佳奈が素早くケリをいれた。
「じょ、冗談だよ」
「ふんっ」
耕一はさっきのことを踏まえ、今度はまじめに訪ねた。
「大人ふたりはこの券で。あと、子供一枚」
「はい、1000円になります」
耕一は財布から千円札を取り出すと、それを名残惜しそうに見つめた。その姿に佳奈が首を傾げる。
「お兄ちゃん?」
「佳奈のためだ、成仏してくれよ」
本日4回目の佳奈の愛情表現(愛憎表現とも言う)をくらう耕一。その目には涙さえ浮かんでいるように見えた。
「いてて」
「乙女の鉄槌よ」
「む、難しい言葉知ってるなぁ?」
「誉めても許してあげないもんっ」
ぷんぷんと腹を立てながら佳奈はひとりで中へと入っていった。残されたふたりは自然と顔を合わせる。
「佳奈って元気だろう?」
「そうですね、羨ましいです」
「し、静子さんも素敵だよ」
「あ、ありがとうございます…」
静子の顔が真っ赤に染まった。耕一は自分の言ったことに気づくと、照れくさそうに鼻の頭を指でかきはじめた。
「お、俺達も行こうか?」
「はい」
ふたりが中にはいると、真っ暗になっており映画が始まる直前だった。
「こっちだよ〜」
暗闇の中で響く声を頼りにそこまで進む耕一と静子。
「遅いっ!もう始まっちゃうよ〜」
「悪い悪い、これを買ってたんだ」
そう言って耕一は中に入る前に買ったジュースとお菓子を佳奈に渡した。
「ありがとうっ、お兄ちゃん」
佳奈は嬉しそうに受け取ると、すぐさまお菓子の封を開けて食べ出した。その行動に思わず笑う耕一。そして佳奈の隣に座ると、自然に手を伸ばした。
「静子さん、見える?」
「あっ――」
急に手を握られ驚く静子。そのことに気づいた耕一は素早く手を引いた。
「ご、ごめん。無神経だったよ」
「いえ、私の方こそ」
どことなく気まずい空気が流れる中、映画は始まった。
「お兄ちゃんも食べる?」
映画がはじまって5分ほど経過したとき、佳奈がお菓子の袋を耕一に向けながら聞いた。だが、それに答える人物は――
「ぐぅ……」
寝ていた。その状況に佳奈は『お前はの○太かっ!?』とツッコミたい気持ちに駆られたが、我慢した。
「……もう」
佳奈は小さくため息をつくと、そんな兄を放っておくことにした。別に映画が子供向けだったからじゃない、耕一がバイトあけで寝てないことを知っていたからだ。
「耕一さん、寝ちゃったんですか?」
隣から聞こえる寝息を不思議に思った静子は佳奈に訪ねた。
「バイトで寝てないからね。しかたないよ」
「!――そ、そうだったんですか。私、悪いことをしてしまったみたいですね…」
「いいのいいの。お兄ちゃんって、惚れた人のためなら2日でも3日でも起き続ける自信があるって言ってたから。別に今寝てるし問題ないよ」
「は、はぁ…?」
佳奈のしっかりした言葉に静子は気の抜けた返事をした。幼いわりにはしっかり者の佳奈、それに反してちょっぴりドジでどこか世間知らずな静子。これではどっちが年上かわかったもんじゃない。
「佳奈ちゃん」
「なーに?」
「耕一さんはどうして私なんか、好きになったのかしら?」
「佳奈、子供だからわかんなーい。そーゆーことはお兄ちゃんから聞いてみてよ」
「そ、そんなの聞けないよ〜!」
佳奈の言葉に静子はあたふたと戸惑った。そんな静子を見て佳奈が堪えきれないように笑う。
「あはは、人を好きになるのに理由なんかないよ」
「えっ?」
「静姉ちゃんもそうでしょ?」
「私?私は男の人が苦手だから…」
「そうかもしれないけど、お兄ちゃんにもそうなの?」
その言葉に静子はハッと気がついた。いつもは男の人が近くにいるだけでなにも喋れず、怖くなってしまっていたのに、それが耕一だと今までとは違う緊張があることに静子自身が悟った。
「耕一さん…」
静子は隣に目を向けた。そこには無邪気に寝ている耕一の姿、イスに置かれている手を静子は何気なく眺めた。
耕一さんの手って、とっても大きい――それに優しそう。
静子はためらいもなく小さな自分の手を重ねた。自然と恐怖は感じなかった。
「この手に何回も助けてもらったの、まだ会ったばかりなのに」
「それがお兄ちゃんのいいところ。私の自慢なの」
静子の心に佳奈の声がしみじみと流れ込んでいった。
「悪かったよ」
映画も終わり、昼時の時間になった一行は近くにあるファーストフードに足を運んだ。
そこで耕一は先ほどの非難を受けることとなった。
「映画を見ずに寝るなんてサイテー」
「いや、子供向けだったから――つい」
「どうせ私は子供ですよ〜」
事実、佳奈は子供である。耕一はそう言ってやりたがったが、またなにかされるのが怖くなって止めた。
「佳奈はともかく、静子さんは面白かった?」
「ええ、あれなら大人の人が見ても楽しめますね」
「そうそう」
「ふーん。それなら俺も見ればよかったかな?」
「お兄ちゃんったら、静姉ちゃんの言うことには素直なのねぇ〜」
「う、うるさいっ」
ムキになった耕一は佳奈のフライドポテトをたくさん掴んで、自分の口の中に放り込んだ。
佳奈が非難の声を上げる。
「ああー!私のー!!」
「減るもんじゃないし、いいだろう?」
「減った減った!」
「わははっ!気のせいだ」
「気のせいじゃないよっ!お兄ちゃんのバカー!」
普段は足なのだが、このときは場所のせいか、佳奈の拳が火を噴いた。
「顔面に直撃したぞ?」
「自業自得よっ!」
「ははは、相変わらず難しい言葉知ってるなぁ〜」
さわやかに言い放つ耕一の鼻から血が垂れた。それを見た静子は急いでハンカチを取り出すと、耕一の鼻を押さえた。
「大丈夫ですか?」
「あ――うん」
「血が止まりませんね…」
「少しなら問題ないよ。男は女と違って血を流さないからね?」
「――え?」
耕一の言わんとすることを理解した静子。その顔が赤く染まる。
「そ、そんなこと知りませんっ」
「あ、あはは…」
「やらしい耕一さんは嫌いですっ」
「も、もう言わないから嫌わないで〜」
佳奈は耕一の言ったことが理解できなかったものの、ふたりの雰囲気が良いことに黙って微笑んだ。
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