阪神高速道路公団 設立への道のり
阪神高速道路は、大阪、神戸を中心に京都にも都市高速道路を建設し、今日ではその道路網が全長260km弱にも及ぶ都市高速道路ネットワークを持っています。そのほとんどは前進である阪神高速道路公団の時代に整備されたもので、50年以上かけて着実に必要な整備を続けてきた成果であり、関西地区の経済を支える重要なインフラの一つと言える存在です。そんな当たり前のような存在である阪神高速道路は、決して高度経済成長の時代の流れの中で一筋縄で誕生したものではなく、むしろその逆で、当時の日本政府には「阪神高速道路公団」を設立する計画はなく、都市高速道路の公団は首都高速道路公団のみしか認めない方針でしたので、大阪や神戸の高速道路網も日本道路公団で整備を行う予定でした。その為「阪神高速道路公団」の設立には多くの苦労がありましたが、全くと言っていいほど知られておらず、現在の阪神高速道路株式会社の公式サイトでも触れられていません。ここではその辺りの話を阪神高速道路公団二十年史などの資料を元に設立に至る経緯などを記述していきたいと思います。
阪神地区への都市高速道路導入の背景
昭和30年代の大阪府は自動車交通が激増する一方で道路の整備状況が悪く、さらに商業地でもある大阪では狭い道路でも路上駐車が当たり前の状態で、混雑を増大の悪循環が起きていました。昭和35年になると大阪市では1回500m以上で30分以上の交通渋滞が月に100回を越える事もあり、同年10月6日(木)には北大阪一帯が6時間もの間麻痺状態となる事態が発生しました。交通事故も多く、大阪では東京に比べて道路の整備状況が悪いうえに貨物車が多いという事もあり、昭和36年には大阪府の交通事故の死亡者が1098人にのぼり(東京都は1169人)、社会問題となっていました。
さらにこの状況は道路整備を当時のペースで進めたとしても、悪化の一途を辿るという試算が出され、昭和42年には調査を行った交差点39箇所のうち29箇所が麻痺するという将来交通予測がされていました。神戸では、大阪ほど酷くはないものの市街地が細長い為、一箇所でも交通麻痺状態の交差点があると市全体に影響がでる為、大阪市と同様に昭和42年には交通麻痺が発生すると予測されていました。その為、このような状況を打開する為に、道路整備計画の推進や駐車場の整備といったものだけでなく、一般道路と分離させて都市高速道路が必要だという考えられるようになりました。
阪神地区高速道路協議会の設立と具体化への調査・研究・議論
阪神地区への都市高速道路構想の具体化に向けて昭和34年9月18日に『阪神地区高速道路協議会』が結成されました。この協議会は阪神地区の都市高速道路や幹線道路の調査研究を行い、審議を行うために結成されたもので、当時の建設省近畿地方建設局、大阪府か、大阪市、兵庫県、神戸市、日本道路公団大阪支社からの人員(主に土木・建設部署の局長や支社長など)で構成されていました。
昭和35年度には計画路線案がまとまりつつありましたが、当時の計画案は現時の阪神高速道路としてのものではなく、幹線道路の計画であり、これを無料の道路とするか、有料道路とするかの議論が交わされました。事業の大きさとしては全体を公共事業として無料の道路で整備するのは難しく、悪化の一途を辿るする自動車交通問題への打開策として緊急性を要するものでしたので、原則としては有料道路で整備する方針となりました。
整備の事業主体についてはも議論がされました。地方公共団体や事務組合を主体する案については、財政上の問題の他に、整備が必要な路線は行政区域を越えており問題があるとされました。当時すでに発足していた日本道路公団を事業主体とする案は、「首都圏以外の有料道路事業は出来る限り日本道路公団で行う」という当時の政府の意向に沿うものでしたが、協議会では別に新たな公団を設立すべきだという考えがありました。これは政府の意向とは異なるものでしたので設立には政治的な難題を抱えるものになるのですが、日本道路公団を事業主体とすると、当時はまだ試行錯誤の状況であった都市への高速道路建設や資金上の問題もあり、協議会では新公団「阪神高速道路公団」を設立して阪神地区の都市高速道路整備の事業主体とする方針を決めました。
阪神高速道路公団設立への政治的問題
阪神高速道路公団を設立するという方針が決まりましたが、これはまだ協議会での話であり、ここから政府にこの方針を認めてもらい、国会で可決される必要がります。しかし、前述の通り政府は既に「首都圏以外の有料道路事業は出来る限り日本道路公団で行う」という事を決めており、これを打破しなければ阪神高速道路公団を設立する事は出来ません。これは首都圏への一極投資等を意図しているのではなく、当時は政府に設備投資抑制方針があり、むやみに公団が増やさず抑制する事を原則としていたからです。なので、阪神高速道路公団だけを例外的に認めるのは極めて困難でした。
阪神地区高速道路建設促進連盟の活躍
阪神地区高速道路協議会が都市高速の調査・研究などをする実務的な役割りをしていたのに対して、新公団設立とは逆の方針である政府への陳情など政治的な面で大きな役割を果たしたのが昭和35年に設立された阪神地区高速道路建設促進連盟です。この連盟は阪神高速道路の建設促進をするためのもので、大阪府知事が会長となり、大阪市長、兵庫県知事、神戸市長、大阪・兵庫の両府議会議長、大阪・神戸の両市議会議議長を理事として、地元の国会議員や大阪や神戸の商工会議所の会頭や各関係機関の長などが参加していました。
阪神地区高速道路協議会と歩調を合わせており、そちら側で事業主体として阪神高速道路公団を設立する方針が決まった後に連盟でも事業主体の議論をして同じように新公団設立の方針を決めています。尚、連盟が新公団での設立について議論している段階から既に大阪商工会議所は、関係者間では新公団設立という方向になっているので国会開会中に経済界からだけでも新公団設立の要望を出すべきだとして、各方面へ新公団設立への要望を記した建議書を送付して積極的な動きを見せていました。
連盟としても昭和36年6月26日の理事会で新公団設立で方針が決定される情勢となった為、それにさきがけて6月17日には「阪神高速道路公団方制定促進についての要望」をまとめて関係当局へ建議しました。さらに、6月26日の理事会ではより強力な促進運動を起こすように要請して、地元各界揃って阪神高速道路公団設立に向けて動く事になりました。
厳しい政治的な局面
新公団設立については政府の方針により厳しい状況で、協議会では路線計画案の説明する際に建設省に新公団の設立を打診してはいましたが、首都高速道路公団以外の地域公団の設立しないという政務次官による国会答弁や、地方公共団体の意見が一致していなどの理由で否定でした。しかし、昭和36年6月に建設促進連盟で新公団設立の方針が決まってからは建設省については新公団設立には肯定的となり、建設省では省議で新公団設立が決定されました。その後、関係各省庁との折衝が行われましたが、設備投資抑制方針により新公団設立は厳しい状況で、阪神高速道路公団だけ例外的に設立を認められるような要件を生み出せるかが新公団設立への重要なポイントとなりました。特に大蔵省は公団は全国的な事業を扱うのが本来の姿であると言う考えで、地域を限定した公団方式の整備自体に批判的でした。
陳情、陳情、また陳情そして年末の大逆転
阪神高速道路は昭和37年度着工を目指しており、その為には昭和36年中には新公団設立を認められる必要がありました。実際、道路の必要性そのものは認めらており、昭和36年の秋には次年度(昭和37年度)に予算を付ける事が内示されていましたが、その事業主体は日本道路公団で、このままでは大阪・神戸の都市高速道路は日本道路公団で整備する方向で進められてしまう状況でした。
下記は、そんな絶対絶命状態の昭和36年の秋に阪神高速道路公団の設立を目指した関係者の方々が政府への陳情に奔走した際の状況を箇条書きにしたもので、阪神高速道路公団二十年史の記載から抜粋したものです。ギリギリまで厳しい状況が続いたため、年末までかなり積極的な陳情が行われていました。
・昭和36年10月11日
池田総理大臣、大蔵大臣へ公団方式の採用を要請
→大蔵大臣は消極的で、総理大臣は計画を熟知していない用意だった。
・昭和36年11月8日
自民党の政調会長、幹事長、総務会長へ公団設立への緊急性と必要性を説明
大蔵省も訪ねて新公団設立を要請
→自民党は同情的となったが、大蔵省は公団方式での整備に批判的だった。
・昭和36年11月15日
衆議院設立委員会へ「公団法」の制定を強く要望
・昭和36年11月17日
大蔵大臣へ「公団法」の制定を強く要望
→しかしながら、12月の第1次内示で新公団を設立して整備する路線に付けらるはずだった昭和37年度事業費10億円と調査費1440万円が日本道路公団の新規路線として付けられ、阪神高速に設立が事実上否定される。
・昭和36年12月20〜21日
数班に分かれて関係各省、自民党関係者、党内実力者を訪ねて新公団設立を陳情
→12月24日に自民党政調会があり第2次内示があったが新公団設立は認められず。
・昭和36年12月25・26・27日
数班に分かれて関係各省、自民党関係者、党内実力者を訪ねて新公団設立を陳情
池田総理を訪問して新公団設立を強く陳情
→12月27日、臨時交通関係閣僚懇談会で阪神高速道路公団設置の方針が決定し、懇談会は大蔵大臣と自民党政調会に対して昭和37年度予算にこの方針を織り込むように要望。
・昭和36年12月28日
阪神高速道路公団の設置確定
・昭和36年12月30日
昭和37年度阪神高速道路公団予算案が閣議決定
設立時の熱意はそのまま都市高速道路網の整備へ
このように今日の阪神高速道路網は、絶対絶命の状況から最期まで諦めず陳情を続けた当時の関係者の方々の努力と熱意により設立された"阪神高速道路公団"があたったから建設出来たものです。
しかもこの熱意は阪神高速道路公団設立後も健在で、最初に開通した区間でもある環状線の一方通行4車線方式という異例の道路形態をはじめ、驚異的な速度で整備が進んだ空港線(現在の11号池田線)などの放射路線の早期整備に繋がりました。阪神高速道路公団10年史に掲載されている座談会では「大阪市も大阪府も自分たちの道路を阪神公団に委託しているような気持ちでいた」、「他人の道路ではなく、ほんとうに自分の道路と思っていたから進むが早かった」、「首都高は与えられた道路であり、こちら(阪神高速)は勝ち取った道路で、発足前から意気込みが違っていた。」という言葉が交わされ、公団設立前の熱意がそのまま道路整備へと繋がっている印象を受けました。
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